「感覚の分析」エルンスト・マッハ (須藤吾之助/廣松渉訳)
同時に響いてくる沢山の音が識別されるのは、一体どうしてなのか?
どうして一つの感覚に融合してしまわないのか?
高さを異にする音がどうして中位の高さの混合音にならないのか?
このようなことが実際には起こらないという事実によって、
われわれの考案すべき見解が一層限定される。
恐らく、音の場合にも、識別され単一の印象に合流してしまわない空間中の相異なる場所に現れる赤と黄の混合色の系列の場合と類似の事情にあるものと思われる。
実際、或る音から別の音へ注意を移す際には、
視空間内における凝視点の転換の場合と類似の感覚が生ずる。
純音列系は、両側が限界を画された、
例えば正中面に垂直に右から左へと伸びている直線のような対称性を呈せぬ
一次元の空間と類似的である。
それは鉛直線や、正中面内でこちらから向こうへ伸びている直線とは、より一層よく似ている。
しかし、色は空間点と結びついておらず、空間内を動き回るので、われわれは空間感覚と色彩感覚とを容易に分離するのであるが、音響感覚にあっては事情が異なる。
一定の音響感覚は上述の一次元の空間の特定の部位にしか現れることが出来ないのであって、
当該音響感覚が明晰に現れる場合には上に言う部位が必ず確定している。
ところで相異なる音響感覚は音感基体の相異なる部分に現れるのだと表象したり、
或いはまた、かの二つのエネルギーのほかに第三のものがある。
詳しく言えば、高低音の色合いがそれの割合によって制約されているかの二つのエネルギーの他に
音に注意を固定する際に現れる神経興発に類する第三のものがある、と考えることも出来る。
あるいは、これら双方が同時に生じるのかも知れない。
この点について裁定することは目下のところ不可能でもあり、不必要でもある。
音響感覚の領域が空間、それも対称的でない空間、とのアナロギーを供するということは、
無意識のうちに言語にも現れている。
楽器がヒントになって左の音、右の音といった表現が生まれてもよさそうなものだが、
われわれは音の高低は云々するけれども、
音の左右を云々しはしないのである。

エルンスト・マッハの本は意外と難しくない。
根底にあるのはヒュームの感覚一元論であるし、ヒュームやカントが読める人ならマッハも読めるはず。
とはいえ、マッハはかなり黙殺されている。
実際のところ、これについてちゃんと語るとなると、物理学と哲学と、さらには医学の知識まで必要になってしまう。
マッハの言っていることは表面的に理解できても、そこから議論を広げるのはかなりの専門知識が必要である。
たとえば木田元の「マッハとニーチェ」は入手しやすい概説書だが、木田元は数学も物理も出来ないので、いろんな文献を引用して概略をまとめた中途半端なものとなっている。
われわれが医学書を読んでも一応は理解できるわけだが、それはあくまで表面的な理解であり、さらに深く語るとなれば専門的な医学知識を総動員することが必要となる。
たとえば嘘の医学知識が書いてあっても素人には見抜けないし、そのまま読むしかないわけである。

マッハの名前は音速の単位として誰でも知っているわけである。
また相対性理論はマッハとヒュームの影響で生まれたとアインシュタイン自身が言っている。
時間や空間を人間の感覚的なものだと考えてみることで、強い影響を受けたのであろう。

冒頭に引用してみた文章は、要するに、音がなぜ耳にこういうふうに聞こえるのかという不思議を語っているわけである。
これ自体はもっともであるし理解できる。
バイオリンの音が鳴るとして、バイオリンの音が鳴りながら空気中を伝わってくると普段は素朴に思っているが、よくよく考えるとそうではないはずで、聴覚を抜きにしたところでバイオリンの音が鳴っていることはないだろう。
音波とそれを頭の中で再生するのとは別問題である。
それにわたしの頭の中と他人の頭の中で同じ音声が響いているかどうかは確認できない。
頭の中の音や声は確認のしようがないからだ。
これは五感すべてについて言えるわけである。

形而上学とは宇宙や人間の根源を問う学問である。
近代科学が出てくる前にはそうするしかなかったのだ。
その宇宙と人間の根源を問う学問をマッハはやっているように思うし、いわば形而上学と近代科学の橋渡しをしていると言ってもいいのだが、いろんな人に影響を与えている形跡はあるとしても、なにしろ物理学と哲学に通暁している必要があるから、読んでないことにしておくのが無難である。
マッハの言っていることは理解出来るが、それについて深く語るのは無理というのが正直なところだろう。
いずれにせよ、形而上学の時代は終わったのであり、これからは物理学者が宇宙の根源について考えるのである。
アインシュタインはヒュームを愛読していたそうだから、物理学者が発想のヒントとして哲学書を読むことはあるだろうが、形而上学そのものでは答えが出ないだろう。
ヒュームは自分の考えをあっさり結論から言ってしまって、それでおしまいというタイプであるから、ハイデガーのようなカリスマ性が無くて人気がないわけである。
人気がないヒュームが最も人類への貢献度が高いのは興味深い。







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