2015.11.04

実行と願望

数十年前までは神経症の時代であったし、願望そのものが罪であるという発想も珍しくなかった。
願望を抑圧しようという神経症空間においては、実行も願望も大差がないかのように扱われてしまうのだが、ようやくこの自由社会において、願望まで抑圧しようという厳格さは衰退し、実行するかしないかが境界線となったのである。
この境界線を踏み越えるかどうかが問題であり、願望なら問題視されない。

行動という現実があるから人間存在なのである。
この現実というフィールドで実行することが、実存主義的に「存在」であるし、そこが問題なのである。
実行・不実行には決定的な違いがあり、願望したかどうかなどどうでもいい、わけである。
だいたい殺意くらいは誰でも持つわけだから、願望で同レベルにされたらかなわないし、実行・不実行こそが問題である。

とはいえ、願望を取り締まりたいという厳格さも完全に消えたわけではない。
モラルの難しさは、殺人とセックスを似た問題として扱わなければならないことである。
セックスは基本的には犯罪ではないが、モラルの根幹でもある。
アメリカでさえビル・クリントンとモニカ・ルインスキーの不倫で大騒ぎしたり、タイガー・ウッズもかなり評判を落とした。
フロイトがすべての原因を性欲に求めたのも、抑圧の根幹がここだからであろう。
抑圧とは要するに願望への攻撃なのである。
われわれ日本人は女子高生とやりたいとか平気で言うが、欧米のまともな人間がロリコン願望を口にすることはないであろう。

犯罪者予備軍(不審者)を事前に捕まえるというわけのわからない発想もあるわけだ。
宅間守が池田小に突入するのを防げたはずだ、というばかげた意見が跋扈したこともあった。
おそらくは弁護士の入れ知恵であの狂疾の極みの遺族がマスコミを引き連れて大暴れしたわけである。
あの遺族のせいでどれだけ日本社会が迷惑したと思ってるんだ。
福知山の露天商の名前すらほとんど報じられず商工会議所が主犯という扱いなのも、弁護士の入れ知恵である。
池田小も福知山も金に群がる遺族の見苦しさが最大の問題なのである。
秋葉原通り魔事件の遺族がマスコミの前に出てこないのは、管理責任を問えないという弁護士のアドバイスであろうが、あれが仮にコミケの会場で起こっていた事件なら、100パーセント確実にマスコミの前に出て管理責任を問うていたはずである。
もはやわれわれは抑圧構造の麾下にはいないので、欲望そのものが罪深いと思ったりはしないのだが、いろいろと管理責任を問われると面倒であるから、そこは気をつけなければならない。
父親というシンボル性は弱体化したけれども、遺族とマスコミというモンスターは健在なのだ。







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