2015.11.09

病者の光学

ニーチェ「この人を見よ」西尾幹二訳
病苦の時期にはわが身における何もかもが洗練された。
観察それ自体だけでなく、
観察の全器官も洗練されたのである。
病者の光学から一段と健康な概念と価値を見渡し、
また、これとは反対に豊富な生の充実と自身とから
デカダンス本能の秘かな営みを見下ろすということ、
これが私の最も歳月をかけた修行であり、
私の本当の経験であって、
もし私が何らかの点で達人になったのだとすれば、
それはこの点においてであった。
私は今やこの点をしっかり手中に収めている。
物の見方を切り換えることにかけては私はお手のものである。
おそらく私にだけ、
そもそも「価値の価値転換」などということが可能になる第一の理由は、ここにある。


ニーチェ「曙光」氷上英廣訳
病者の認識について---
長いこと恐ろしく病苦に責めさいなまれ、
それにもかかわらず知性が曇らない病人の状態は、
認識に役立つところがあるものだ。
すべての深い孤独状態、
およそ一切の義務や習慣からの突然の解放がもたらす、
いろいろな知的恩恵については言わなくとも。
重い病苦に悩む者は彼の状態から、
恐るべき冷酷さをもって外部の事物を見渡す。
健康者が見る場合に通常事物を蔽っているあのすべての小さな欺瞞的な魔術沙汰が、
病人の眼には消えてしまう。
いや、病人の彼自身が自身の眼前に色も艶もない生のままの姿を見せる。
もし彼がこれまでなんらか危険な夢想のうちに生きてきたとすれば、
この苦痛による最高度の覚醒は、
彼をそこから引きずり出す方法、
おそらくは唯一の方法であるだろう。


哲学者に狂気が必須かというと、おそらくそうではないだろうし、たいていはナード系でさほど幸福とは言えない人生だが、カントやハイデガーは苦しみの人生を送ったというわけでもないし、キェルケゴールがせむしであったような明らかな不具者も稀であろう。ニーチェが梅毒だったかどうかは判然としないし、本人が何の病気だと考えていたかもわからないが、ただの不健康ではなくスティグマとして捉えていたであろうし、それを聖痕たる有徴性として、選ばれた人間としての自意識を肥大させていたはずである。交通事故に遭って顔に大きな疵が残るとか、半身不随になるとか、そうでもなれば今までとは違った世界が見えるであろうし、いろんなことに気付くであろうが、とはいえ、そのような境涯にある人が病者の光学を発達させているわけでもない。ニーチェが健康だったら普通の人だったかというと、おそらくそうではないはずだが、彼はあくまで身体的な疾患を宿命と考えたのである。ニーチェはキリスト教の批判を続けたが、彼の父親が牧師であることを考えると、自らを退廃した聖者として捉えていたように思える。オスカー・ワイルドを代表とする19世紀後半の芸術運動の影響もあるだろうが、ニーチェという人間の中で、身体的な病気を暗澹たる運命として歓迎する、いわば悪魔崇拝のような感情が閃いたのである。







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