われわれは支配-被支配という思考法に馴染んでいるから、人間と道具の関係にもこれを当て嵌めてしまうのだが、おそらくそうは考えない方がいいであろう。
人間の快楽-苦痛という問題が主軸であるので、どうしても人間が主人という発想になるのだが、だからといって道具が奴隷というわけではあるまい。
つまり、道具の擬人化はしない方がいいであろう。
もしくは、道具を擬人化したいならしてもいいが、擬人化するかしないかは意識的でなければならない。
現在あなたがYouTubeで映像を見ているとして、パソコンやスマホがそれを再生してくれていると擬人化することも可能であるし、スマホを自分の召使いだと考えることだって可能ではあるが、機械に意志などないわけである。

人間はQOLを向上させるために道具を作るわけである。
生物化学兵器を作る連中でも、それで他人を滅ぼせば自分のOQLが上がると考えている。
もしくは自殺でさえも、苦痛の軽減が目的であるから、やはり快楽-苦痛の原理に従う。
われわれは道具を作って、それで社会を生成しているのである。
人間が主人公ではあるのだが、本当は道具が主人公ではないか、という気もするわけである。
ドーキンスの利己的な遺伝子みたいな論法は誤謬なので用いたくないのだが、人間という生き物は、存在させられているにも関わらず、自ら存在しているつもりなのである。
われわれは被造物としての自覚が足りない。
スマホを握りしめている人間を見れば、もはやスマホが人間を操縦していると言ってみたくもなる。

語弊のある言い方になるが、われわれは誰もが身体障害者なのである。
車椅子に乗っているのとスマホにしがみつくのとどこが違うのか、という話である。
すべての道具は車椅子である。
ポルシェは車椅子である。
電車も飛行機も車椅子である。

そもそも障害という概念について考えて貰いたい。
99パーセントの人間が空を飛べるとしたら、飛べない1パーセントは身体障害者と言われるわけだ。
「足で歩く」のと「空を飛ぶ」のは生物の身体機能として同列であるはずだが、人間は飛べない動物であるから、飛べなくても障害者とは言われないだけである。

われわれは性欲の固まりであり肉体フェチなので、「肉体がない」とまで言い切るのは難しいのだが、とはいえ、道具によって生成されている世界の本質を考えるなら、肉体がないと考えてみるのもひとつのアプローチである。
セックスの問題を除くと、ほとんど植物人間と同じなのである。
肉体はあってもなくても同じであるという極論さえ可能である。







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