「保元物語」
「口おしき事かな。我朝にかぎらず、天竺・震旦にも、国を論じ位をあらそひて、舅・甥謀叛をおこし、兄弟合戦をいたす事なきにあらず。我此事をくゐおもひ、悪心懺悔のために此経をかき奉る所也。しかるに筆跡をだに、都にをかざる程の儀に至ては、ちからなく、此経を魔道に廻向して、魔縁と成て、遺恨を散ぜん。」と仰ければ、此由都へきこえて、「御ありさまみてまいれ。」とて、康頼を御使に下されけるが、参てみ奉れば、柿の御衣のすすけたるに、長頭巾をまきて、御身の血をいだして、大乗経の奥に御誓状をあそばして、千尋の底へしづめ給ふ。其後は御つめをもはやさず、御髪をもそらせ給はで、御姿をやつし、悪念にしづみ給ひけるこそおそろしけれ。

保元の乱で後白河天皇に敗北して流罪になった崇徳上皇はなぜ怨霊になったのであろうか。
もしくは、なぜ怨霊になったと信じられたのであろうか。

死んだら無になるのが実際なのだろうが、たぶん人間はそこまで確信してはいない。
不幸なまま死んだら怨霊になるという観念がどうしても発生してしまう。
この観念から完全に遁れて唯物論者に徹することは出来ない。

そもそも生きているうちから人間は怨霊なのである。
不幸な状態で死ぬと怨霊になるのではなく、不幸な人は現世ですでに怨霊であり、そのままで死んでしまうとまずいということなのだ。

ほとんど100パーセントに近い確率で、人間は死んだら無であることは念を押しておくが、そうではない可能性もどこか考えてしまうので、怨霊のままで死ぬとまずい、生きている間に報われておかないとまずいと考えるわけだ。

幸福でも不幸でも、死んだら同じなのでどっちでもいいはずだが、やはりその状態で死後も固定されるという一抹の不安は拭い去れない。
死ぬまでに思いを果たしておかないと、怨霊として永遠に世の中を呪詛することになる、と考えたりするのである。

人間は怨霊としてこの地球という穢土に産み落とされると言っても差し支えあるまい。
だから生きている間に怨霊の状態から遁れて這い上がり成仏しようと考えるのが人間存在なのである。
死んだら無になると完全に確信している人がほとんどいないので、こういうことになる。

よくわからないが、たぶん幸福な人間は成仏できたと思っているのであろうし、死んだら無だと考えない。
もしくは幸福になっておけば、どちらでも対応できるということかもしれないし、念には念を入れて幸福になっておいた方がいいのではあろう。







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