われわれが人間について語る場合は、どうしても具体例を使うしかない。
もちろん具体例を使わずに記述することも可能ではあるが、どっちみち読者の方で具体例を思い浮かべるのだから、わざわざ避ける意味がない。

具体例を引き合いに出す場合、そのエピソードに普遍性を求めているわけである。
チェルノブイリや福島原発は個別の事件ではなく、それが人類にとっての課題なのである。
つまり、チェルノブイリとか福島の事例は、原発事故の類型としていろんなところに立ち現れるのである。

人間は具体的に(経験的に)存在しているのである。
あれこれ体験することで世界に存在する仕組みになっているので、その現象が肝心なのである。
具体性こそが存在の根幹であるから、具体例で語るしかない。

宇宙のどこかに知的生命体がいるとして、それはわれわれと同じ経験はしていないはず。
経験とは肉体と脳の機能による現象であり、それがすべてであるから、この仕組みが違えば経験もまったく違う。
たとえばわれわれは光を視覚で理解しているが、もっと高度な仕組みもあり得る。
だから、人類は、人間だけの経験則で理解するしかないのである。

人類は性能違いのクローンである。
われわれはお互いに仲が悪いし、胃袋と性器が個別である限りは不倶戴天の敵であり、蛇蝎のごとく憎み合いながらやむなく雑居房で顔を合わせているのだが、これは狂疾たる相続争いの渦中にある兄弟のようなものであり、血で血を洗いながら贖っている。
似通っているからこそ、同じものを求めて紛糾するのである。

そしてクローンであるから、すべての体験には共通性がある。
「転んで怪我をした」というのは共通性があるわけだ。
健常者であれば誰でも歩くし転ぶこともあるだろうし、怪我をすることもある。
「風邪で寝込んだ」ということなら、誰でもそれは理解できるわけである。
人間は風邪を引くし、寝込むこともあるからだ。
つまり性能差はあれども、身体の設計が同一であるから、すべての体験は理解しうる、というより、人類の規格にない体験は出来ないので、いやでも共通してしまう。

あなたの親が離婚したとすれば、他のいろんな離婚の事例を参照しながら考えるのであるし、人類史で一度限りの出来事ではなく、幾度となく繰り返された離婚問題という文脈で捉えるわけである。
言うまでもなく、すべての離婚はそれぞれ個別の事情があり、決して同一ではあるまいが、やはり類例として括ってしまった方が理解はしやすい。
というより、われわれは自分の体験しか知らないので、そこから理解を広げるには、類例を探すしかないのである。
人類すべての離婚事例を知っているなら、逆に、すべてを個別に扱ってもいいが、知っている数少ない事例からイメージするのであるし、それで人類全体を理解したつもりになるのである。
これは人間の認識の限界なのである。







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