人間は被造物であるから、設計された規格に従って活動しているわけであり、自由意志というのは疑わしい。それでもわれわれはこれを強制とは感じないのである。自分の意志が踏みにじられて他の人間から強制されることは多々あるとしても、自ら発した意志は自由に基づくと考えている。われわれが誰かを愛するとしたら、たまたま自分の好みとその相手が重なっていたのであろう。その好みは調整出来ないわけだ。好き嫌いはかなりの部分が人間普遍の規格であり、個々人で多少の色合いの違いはあるとしても、美人は誰が見ても美人であり、人間の規格として僅かな嗜好の幅を持たせているだけである。被造物として定められた好き嫌いで他人を愛しているのであるから、果たしてどこまで自由なのか疑わしい。とはいえ、抗えないほど他人を愛する感情まで容易く調整できるとしたら、簡単に出したり引っ込めたり出来るのが愛であろうか、という問題に逢着する。人間は人類という牢獄の虜囚であり、そこから解放されたら存在が成り立たない。

もしくは苦痛という観点から考えてみよう。われわれが徴兵されて屍山血河たる戦地に赴くとする。そしてどこかの島のジャングルで敗走し餓え苦しむとする。もし苦痛をオフに出来るなら、その苦しみはないわけである。苦痛が肉体の警報装置だとしたら、火災報知器を止めてしまうようなものであるが、この喩えで言うと、火災報知器を鳴らしても火事は消えない。どうせ消防車が来ないのなら、肉体がどれだけ餓え乾き、損なわれ蝕まれても、せめて神経の隅から隅まで版図を広げる苦痛は消したいものである。だが、そういう調整が出来ないからこそ、人間や人生がある。苦境に陥っても、心の設定を変更して平穏に暮らせるとしたら、もはや人生という演出が成り立たない。苦界ではそれに似つかわしい地獄の苦しみを味わって貰う必要がある。

人間は根無し草だからこそ、被造物として与えられた設定を自分だと思うしかないのである。つまり端緒からして、支配されるべき「本当の自分」がない。もし「本当の自分」があるのなら、桎梏というべき感情を強いてくる神は支配者ということになるが、何しろこの感情の支配から脱したら無である。無から有が生成されているのだから、人間としての規格を否定したら何もないのである。だから神の恩寵に感謝せよというわけではあるまいし、この創造主が物質に心を与えたことへの業の深さを詛ってもいいが、ともかくそういうことなのである。







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