ニーチェ「曙光」(氷上英廣訳)
日ごとに消費される人々、これらの若い人々には個性も天分も勤勉も欠けていないのだ。しかし人々は彼らに、自己自身に方向を与える時間を許さなかった。むしろ、子どもの時から、方向を受け取るように彼らを習慣づけた。彼らが「荒野に送られる」のにふさわしく成長したとき、人々はそうはしなかった。人々は彼らを利用した。彼らを彼ら自身から盗んだ。彼らを日ごとに消費されるものに教育した。これを彼らの倫理学とした。そこで今では彼らはそうしないではやっていけなくなったし、またそれ以外を欲しもしない。ただ人々はこれらの哀れな牽引用動物に、その「休暇」---この過労の世紀における閑暇の極地がこう名付けられていて、このときは心ゆくばかり、ぶらぶら暮らし、阿呆になり、子供じみることができる---、を拒むことはできない。


中川翔子がすっかり零落した姿をさらし、恥部を告解できる同胞としてはるかぜと意気投合したのは、本来の才能を開花させる間もないほどバラドルとして忙殺されていたからであろうし、才能があるからこそくだらない人間になったのである。
スケジュールが隙間無く埋まってしまうことの恐ろしさである。
息つく暇もないほどバラドルとして忙殺されているうちに、堕落を極めたのである。

ではスケジュールがスカスカの人はさぞかし成長しているのかというと、まったくそうではないし、育むべき才もないのである。
投資しても回収できない物件は一般人になるしかない。
はるかぜ親子や東浩紀は与えられた自由を活かすことができないからこそ、どこからも声が掛からず、まったく成長しない姿を披露し続けている。
そういう蕭条たる風景がインターネットなのである。

資本主義という自転車が倒れないように躍起になっているのがこの社会である。赤字の物件として退場させられるのも悲劇だが、売れ筋の商品になるのもまた別の悲劇であり、その非業と言うべき役割を背負わされたゆいもあは、その内面に宿っていたはずの雪月花を開き示すことを封じられ、水野由結ちゃんは骨と皮となり死相を浮かべているし、もあちゃんはももクロの事務所の男性タレントと艶聞を流している。炭坑夫に身をやつしているから、男と酒と博奕くらいしかやることがないのである。たぶんゆいもあはそれなりの金をもらえるのであろうし、いずれは今井絵理子みたいにDQNの犯罪者と付き合いながら政界進出するのである。Tシャツをたくさん売ったユニットが正統性を獲得する王朝絵巻を手繰るしかない世情であるが、われわれはこの時代にたまたま浮き草のように居合わせて無に帰するのであるから、霊廟で遺髪を握りしめて涕泣するべきことではあるまいし、恬淡と結跏趺坐し、斯くの如き有様こそが人間疎外を根底とした世界の本質なのであると考えるしかない。暇を持て余している能無しならこの穢土にあふれかえっているのに、あくまで中元すず香からの召集令状はゆいもあに送付されるのであり、この自由の剥奪による才能の壊死は回復不能であり、人生と貨幣の交換を強いられ竜頭蛇尾の足跡を辿るのである。







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