2016.03.30
人格障害と多動性
統合失調症の人はネットではあまり見かけない。
というより時たま見かけるのだが、触ると人権問題になるから、誰も言わないし、そもそも御本人の活動量がたいしたことないのである。
やはり統合失調症は快楽ではないはずで、おそらく、おかしな妄想を書き連ねるのも苦痛であるはずだ。
大量投稿は無理だと思われるから、さほど見かけることがない。
人格障害は、快楽という観点からすると、統合失調症とは明確に線引きができるものである。
人格障害は娯楽であるから、朝から晩までフル稼働できる。
馬鹿なことをやっているという自覚もある。
はしゃいでいるわけだ。
楽しいとは言っても、おそらく、鼻くそをほじるのと同じ程度の快楽だろうから、決して幸福な人生ではないのだが、ともかく楽しそうではある。
だから統合失調症の人の10000倍くらいは書くであろうし、放電される運動量は半端ではないのである。
人格障害が多動性なのかどうか、というのも難しいところであるが、おそらく挙動不審の人が多いであろう。
落ち着き払った人格障害者というのは少数派に思える。
やはり多動性が諸悪の根源なのである。
人格障害と統合失調症は峻別されるべきだが、人格障害とADHDはさほど径庭がない。
衝動に取り憑かれていることに自覚はあるはずなので、いわゆる心神喪失ではないし、責任能力はある。
狂っている自分を客観的に眺めているつもりなのである。
身体が勝手に動いている人間をADHDと呼んで障害者扱いするのは極めて適切であるし、頭で考えてから身体が動くという過去の常識は疑問視されるべきである。
肉体に意志があるとまで言うと極論であろうが、普段から、われわれは身体を自動操縦モードにしているのも確かである。
身体が暴れるままにしていると、本当に頭脳が指令しているのかどうか判然としない状態にもなり得る。
坐禅の問題としては、臨済宗はかえってややこしくて面倒で混乱させるように思えるし、禅僧から詰問されて公案など考えたら、より根深い独善性に囚われる。
鈴木大拙の本など読んでもろくなことがない。
やはり道元の曹洞宗が的確である。
只管打坐、つまり目的もなくただ単に座るだけ、というのが悟りに近い。
身体を静止させるだけでいいから、曹洞宗に入信する必要など無いし、余計な思想を吹き込まれることもない。
一日平均1000回を超えるペースでネットに投稿し続ける生活を10年続けて、まったく進歩がないとすれば、活動していたのは指だけであり、頭は動いてなかったということだろう。
人間が仏道を行くのは、自己を知るためであるが、そのためには我執に囚われた自己を忘れなければならない。
自分の思い込みは自己ではなく、あらゆる法に照らされている位相に自己はある。
身心を脱落させるのが悟りである。
というより時たま見かけるのだが、触ると人権問題になるから、誰も言わないし、そもそも御本人の活動量がたいしたことないのである。
やはり統合失調症は快楽ではないはずで、おそらく、おかしな妄想を書き連ねるのも苦痛であるはずだ。
大量投稿は無理だと思われるから、さほど見かけることがない。
人格障害は、快楽という観点からすると、統合失調症とは明確に線引きができるものである。
人格障害は娯楽であるから、朝から晩までフル稼働できる。
馬鹿なことをやっているという自覚もある。
はしゃいでいるわけだ。
楽しいとは言っても、おそらく、鼻くそをほじるのと同じ程度の快楽だろうから、決して幸福な人生ではないのだが、ともかく楽しそうではある。
だから統合失調症の人の10000倍くらいは書くであろうし、放電される運動量は半端ではないのである。
人格障害が多動性なのかどうか、というのも難しいところであるが、おそらく挙動不審の人が多いであろう。
落ち着き払った人格障害者というのは少数派に思える。
やはり多動性が諸悪の根源なのである。
人格障害と統合失調症は峻別されるべきだが、人格障害とADHDはさほど径庭がない。
衝動に取り憑かれていることに自覚はあるはずなので、いわゆる心神喪失ではないし、責任能力はある。
狂っている自分を客観的に眺めているつもりなのである。
身体が勝手に動いている人間をADHDと呼んで障害者扱いするのは極めて適切であるし、頭で考えてから身体が動くという過去の常識は疑問視されるべきである。
肉体に意志があるとまで言うと極論であろうが、普段から、われわれは身体を自動操縦モードにしているのも確かである。
身体が暴れるままにしていると、本当に頭脳が指令しているのかどうか判然としない状態にもなり得る。
坐禅の問題としては、臨済宗はかえってややこしくて面倒で混乱させるように思えるし、禅僧から詰問されて公案など考えたら、より根深い独善性に囚われる。
鈴木大拙の本など読んでもろくなことがない。
やはり道元の曹洞宗が的確である。
只管打坐、つまり目的もなくただ単に座るだけ、というのが悟りに近い。
身体を静止させるだけでいいから、曹洞宗に入信する必要など無いし、余計な思想を吹き込まれることもない。
一日平均1000回を超えるペースでネットに投稿し続ける生活を10年続けて、まったく進歩がないとすれば、活動していたのは指だけであり、頭は動いてなかったということだろう。
人間が仏道を行くのは、自己を知るためであるが、そのためには我執に囚われた自己を忘れなければならない。
自分の思い込みは自己ではなく、あらゆる法に照らされている位相に自己はある。
身心を脱落させるのが悟りである。
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