ハムレットの有名な台詞を引用しようと思い、坪内逍遥の訳文を書き起こしてみたが、語尾に「ぢや」を多用しているのが老人の台詞だとしか思えないので、語尾の一部は現代風に改変した。
また旧漢字も、一部現代のものに直した。
仮名遣いも老人臭いところは現代仮名遣いに直した。
著作権は切れているので問題あるまいし、気になるなら原著を参照してほしい。

在るか在らぬか。それが疑問だ。
残忍な運命の矢石を只管耐え忍んでいるが、大丈夫の志か、或いは海なす艱難を迎え撃って戦って根を断って大丈夫か。
死は眠りに過ぎず。
眠って心の痛みが去り、此の肉に付き纏っている千百の苦しみが除かれるものなら、それこそ上もなく願わしい大終焉であるが、死は眠り、眠る!
ああ、おそらく、夢を見る!
そこに障魔がある。
此の形骸の煩累を悉く脱した時に、其の醒めぬ眠りのうちに、どのような夢を見るやら、それが心懸りだ。
憂世の苦厄をわれと長びかすも畢竟は此の故である。
短剣の只一突きで易易と此生が去られるものを、誰がおめおめと忍ぶであろうか。
世の陵虐や侮辱を、虐主の非道や驕る奴輩の横柄や、成就はぬ恋の切なさ、長引く裁判のもどかしさ、官吏の尊大面、堪忍すればよいことにして君子大人をも虐げる小人共が無禮なんどを、死後の危惧でもなくば、誰が此の厭な世に、汗を流し呻吟きながら、此様な重荷を忍ぶであろうか。
曾て一人の旅人すら帰って来ぬ國が心元ないので、知らぬ火宅に往くよりはと現在の苦を忍ぶのだ。
まず此様に良心は人を臆病者にならする、まつた決心の本の色は蒼白い憂慮に白茶け、如何な大事の企ても、このゆえに逸れ、果ては實行の名を失う。


シェイクスピアの「ハムレット」は誤読に頼っている作品である。
ごく普通に読めば父親の仇討ちをするストーリーである。
王位を簒奪した叔父や、それに阿った母親にハムレットが復讐する話である。
作品の結末も、ごく普通に皆殺しであり、ハムレットも死ぬ。
なぜかこれを人間的な苦悩の物語として誤読したいという風潮が定着している。
「生きるべきか死ぬべきか。それが問題だ」という煩悶が文学的なものだとしたら、煩悶のまま終わるのがおそらくリアリティがあるし、王位を簒奪した敵に復讐を遂げてハムレットが死ぬというのは、文学的に咀嚼しづらい。
あらゆる苦悩が解決しないまま過ぎていって、空想上の復讐のままに終わるのが文学らしいし、悩める人間というハムレットに定着したイメージとしては、復讐は実行しない終幕のほうが望ましいが、とはいえ、400年前にシェイクスピアが書いた時には、人間の二律背反の苦悩について探求したつもりはあるまいし、これは後世のわれわれがそのように誤読したいという問題であろう。
ハムレットは仇討ちを実行するかどうか迷っているのであり、実行して皆殺しという終幕なのであるから、悩める青年というイメージではないはずだ。
やはり人間的な葛藤を「ハムレットの心境」と表現するのは誤読であろうし、そもそも読んでない人が多いであろうが、読んでいる人であっても誤読したいのであろう。
引用した有名な部分が、詩文としてあまりにも格調高いので、これをアンビバレントな青春の悩みとして誤読したい誘惑に駆られるのである。







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