2016.05.27
人間存在。現在への関心の強さ。
人間は現在への関心が非常に強いわけである。
やや語弊があるが、たとえば映画を見るとして、それは現在の体験ではない。
現在というのが色濃くないのだ。
だが、その映画が、現在とても話題になっているのなら、話題沸騰の映画ということで、現在への参加という側面が強くなる。
ネットで暇人と言われやすい人は、現在への関心が極めて強い。
この場合は関心というより、好奇心と言った方がよさそうだが、ともかく現在への注目の強さである。
そして、それだけの注目を惹く出来事があるとは限らないので、現在の面白さの強度が弱いとなれば、他人にかまってもらうために馬鹿なレスを書き続けたりする。
昔の映画を見ることでは、この「現在」への好奇心は満たされない。
現在という突出した生々しい時間性は、やはりこの瞬間においての注目が際立って高くなくてはならない。
現在への参加意識が極めて高い人が、なぜ暇人と言われてしまうのか。
有名人で言えば、はるかぜなどいかにも、ずっとエゴサーチとツイートばかりしていて、現在への参加意識が強いが、その姿勢が蔑まれる。
いかにも時間を浪費しているというイメージであるし、実のところ、ずいぶん手持ち無沙汰であろう。
はるかぜ親子が勉強をやたらと嫌うのは、知能が低いというのも大きいが、勉強というのは現在性がさほど強くないからである。
数学の勉強をしている人は、現在まさに数学の教科書を開いて勉強しているはずだが、それははるかぜ親子が貪っている切羽詰まった現在性とは違うのである。
野次馬で火事を見物するのも、数学の教科書に向かって勉強するのも、現在といえば現在だが、やはり同等の現在性は持ってない。
現在話題になっているものの優位性というのは、人類が共同存在することに必要なのである。
火事が発生しているのに意に介さず数学の問題を解いているようなことは出来ない。
数学より火事のほうが緊迫性が在り、優先順位が高く、それが現在性として時代を作るのである。
だが、野次馬ばかりやっていると、暇人だと言われてしまう。
世間の耳目を惹く大事件が四六時中発生しているわけではなく、どうしてもだれている時間帯があるから、火事が起こってなければ自分で放火するような真似までするのである。
やや語弊があるが、たとえば映画を見るとして、それは現在の体験ではない。
現在というのが色濃くないのだ。
だが、その映画が、現在とても話題になっているのなら、話題沸騰の映画ということで、現在への参加という側面が強くなる。
ネットで暇人と言われやすい人は、現在への関心が極めて強い。
この場合は関心というより、好奇心と言った方がよさそうだが、ともかく現在への注目の強さである。
そして、それだけの注目を惹く出来事があるとは限らないので、現在の面白さの強度が弱いとなれば、他人にかまってもらうために馬鹿なレスを書き続けたりする。
昔の映画を見ることでは、この「現在」への好奇心は満たされない。
現在という突出した生々しい時間性は、やはりこの瞬間においての注目が際立って高くなくてはならない。
現在への参加意識が極めて高い人が、なぜ暇人と言われてしまうのか。
有名人で言えば、はるかぜなどいかにも、ずっとエゴサーチとツイートばかりしていて、現在への参加意識が強いが、その姿勢が蔑まれる。
いかにも時間を浪費しているというイメージであるし、実のところ、ずいぶん手持ち無沙汰であろう。
はるかぜ親子が勉強をやたらと嫌うのは、知能が低いというのも大きいが、勉強というのは現在性がさほど強くないからである。
数学の勉強をしている人は、現在まさに数学の教科書を開いて勉強しているはずだが、それははるかぜ親子が貪っている切羽詰まった現在性とは違うのである。
野次馬で火事を見物するのも、数学の教科書に向かって勉強するのも、現在といえば現在だが、やはり同等の現在性は持ってない。
現在話題になっているものの優位性というのは、人類が共同存在することに必要なのである。
火事が発生しているのに意に介さず数学の問題を解いているようなことは出来ない。
数学より火事のほうが緊迫性が在り、優先順位が高く、それが現在性として時代を作るのである。
だが、野次馬ばかりやっていると、暇人だと言われてしまう。
世間の耳目を惹く大事件が四六時中発生しているわけではなく、どうしてもだれている時間帯があるから、火事が起こってなければ自分で放火するような真似までするのである。
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