個人とは、まさに個人という閉鎖系で判断している主体なのである。
部屋の掃除をしようと思い立ったとして、その「思い立った」のは自分という主体性である。
あくまで自分が掃除しようと思い立ったから、掃除したのである。

電波を受信して掃除させられているというのであれば、自由ではないかもしれないが、われわれの脳に他者は触れられないのであり、その絶対不可侵の場において「掃除しよう」と思ったのであるから、この絶対不可侵性こそが自由意志だと言うしかない。

卑俗な事例で言うなら、美人を見てセックスしたいと思うとか、その欲望の根拠を辿る必要はないであろう。
本能がそうなっているというしかないし、やはり現象世界の問題としては自由意志はある。
なぜ美人とセックスしたいのか、と根拠の無さを理屈で言い立てるのは可能だが、その性欲という現象は分解しない。
快楽-苦痛の原理でわれわれは生きており、快楽-苦痛が付帯しながら五感を通して立ち現れてくるのが人間世界である。
この位相において、個人個人がそれぞれ絶対不可侵の内面において生きているのだから、それは自由意志である。

多細胞生物として有性生殖するようになったのは9億年くらい前であるし、それ以前はオスもメスもない。
37兆の細胞が集まって一人の人間を作っているが、われわれは自分を成している37兆の細胞については把握してないし、あくまで単一の主体性という現象を生きている。
女の体を37兆に分解しても仕方があるまいし、あくまでそれが女として現象してくるのを魅力的に見ているのである。

ひとつの個人の肉体は、この人間世界の盤面ではひとつの駒であり、この主体性は分解できない。
われわれはこの三次元の世界で自分という駒を動かしながら生きている。
この自分という主体そのものは絶対不可侵なので、それを自らの自由だと考えるしかない。
これよりさらに自由を分解するなら、すべては無であると言うしかあるまい。
物事が現象しているレイヤーでは自由意志はある。







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング