2016.07.22
文章はそもそも厳密であろうか
訳文がおかしいとか、そういう話の場合、露骨な誤訳は論外として、そもそも原文がそんなに厳密なのかという問題もあるだろう。
いろんな意味で曖昧に書くことだってよくあるはずだ。
言葉を濁すように書くことだって普通にある。
書物は全知全能の神が書いた教典ではないし、そこにすべての真理があるわけではあるまい。
抽象概念が、具体的な事象を集合としてどこまで括っているのかという問題もある。
「犬」とか「猫」ならこれは具体的に生息している犬や猫を遺漏なく括れるだろうが、たとえば「夢」とか「現実」とか、具体的にどこを指してるのか判然としないこともあるだろう。
100%に近い見込みであれば現実だと言うのだろうが、0%と100%の二択ではないので、なんとも言えないこともあろう。
もしくは「仏性」とか、括り難いことを延々と議論することもあるわけだ。
それぞれの論者が何らかのポジションを取って区画整理をすることはあろうが、論敵への理論武装がどれだけ細部まで行き渡っていようとも、根源的に仏について考えると、なんとも言えないわけである。
「仏」だから無理なのだというなら、三島由紀夫が天皇や武士道について語るのをイメージしてもいい。
武士道とはなんぞやとか、いろんな人が語ってそうだが、そういう言説もかなり多くが曖昧な表現のはずである。
それは人間が本質的に持っている曖昧さだから、突き詰めても仕方がないのである。
愛とはなんぞや、と書かれた記述があるとして、それは曖昧にならざるを得ない。
人間は本質的に百家争鳴のような状態であり、たまたま立ち位置を決め打ちしてポジショントークをするとしても、類全体としてはいろんな角度から紛糾しつつ物語を紡いでいるとも言える。
ひとつの思想を体現する人物として、あざやかな切断面を一回性の命として示し、それを死によって完成させることも可能ではあるが、たいていの俗衆は曖昧さの中におり、特に不定愁訴の中で駄文を書き綴る種類の人間であれば、いろんな角度から物事を照らすことで、あれこれと蛇足を書き連ねてしまうのである。
いろんな意味で曖昧に書くことだってよくあるはずだ。
言葉を濁すように書くことだって普通にある。
書物は全知全能の神が書いた教典ではないし、そこにすべての真理があるわけではあるまい。
抽象概念が、具体的な事象を集合としてどこまで括っているのかという問題もある。
「犬」とか「猫」ならこれは具体的に生息している犬や猫を遺漏なく括れるだろうが、たとえば「夢」とか「現実」とか、具体的にどこを指してるのか判然としないこともあるだろう。
100%に近い見込みであれば現実だと言うのだろうが、0%と100%の二択ではないので、なんとも言えないこともあろう。
もしくは「仏性」とか、括り難いことを延々と議論することもあるわけだ。
それぞれの論者が何らかのポジションを取って区画整理をすることはあろうが、論敵への理論武装がどれだけ細部まで行き渡っていようとも、根源的に仏について考えると、なんとも言えないわけである。
「仏」だから無理なのだというなら、三島由紀夫が天皇や武士道について語るのをイメージしてもいい。
武士道とはなんぞやとか、いろんな人が語ってそうだが、そういう言説もかなり多くが曖昧な表現のはずである。
それは人間が本質的に持っている曖昧さだから、突き詰めても仕方がないのである。
愛とはなんぞや、と書かれた記述があるとして、それは曖昧にならざるを得ない。
人間は本質的に百家争鳴のような状態であり、たまたま立ち位置を決め打ちしてポジショントークをするとしても、類全体としてはいろんな角度から紛糾しつつ物語を紡いでいるとも言える。
ひとつの思想を体現する人物として、あざやかな切断面を一回性の命として示し、それを死によって完成させることも可能ではあるが、たいていの俗衆は曖昧さの中におり、特に不定愁訴の中で駄文を書き綴る種類の人間であれば、いろんな角度から物事を照らすことで、あれこれと蛇足を書き連ねてしまうのである。
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