努力は苦痛というのが定説になっているが、遊ぶのが好きな人とそうでない人は明らかに個人差があり、遊びを断念することがどれだけ苦痛であるか、それは一定ではない。遊ぶのが好きでない人は普通にたくさんいるし、さほど珍しい生き物ではない。もしくは物事に価値を見出す能力の差というのもある。たとえばヴァイオリンの練習をする、というのがあるとする。これにしても、ヴァイオリンに価値を見出す人と見出さない人の差はあり、そこそこ才能があっても苦痛で仕方がないという人はいるはず。ヴァイオリンを演奏して何がいいのか、というのは説明しがたい問題であり、わたしもよく知らないが、それを天意だと考えて生きている人もいるわけだ。そういう人からヴァイオリンの価値を滔々と説明されても、わたしは深く納得は出来ないだろうが、これはわたしがヴァイオリンの演奏などまったく出来ないからである。おそらく価値の説明というのは完全に証明する必要があるまいし、わたしにヴァイオリン演奏の価値を説明できなくても、その人にとって、豈に天に非ずや、という運命愛があればいいのである。本人だけに経路が見えていて、その人だけが到れる山紫水明の境地に向かって、峻険なる荊棘の道を登攀するからこそ価値が有るのであろうし、一望千里の平野で誰でも見渡せるのでは意味があるまい。このような具眼者の世界は、本人だけの感覚であるから、どれだけ筆硯を呵しても説明し得ない。遊びが蔑まれるのは、それが無益な時間の使い方であるだけでなく、どれだけ愚昧で盲いた有象無象でも価値が分かるからである。遊びが愉しいのはもっともな話であり、あまりにもあからさまで、そこに疑問の余地が無いから通俗的な堕落として括るしか無いのである。







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