この半世紀でずいぶん医学も進歩したものであり、昭和30年であれば、乳児死亡率、つまり生まれてから1年未満で死んでしまうのが1000人のうち40人だったが、昭和40年には20人に低下し、最近では3人である。
時代背景で人間が括れてしまうのも確かであり、ここ最近は誰もが訴訟沙汰に怯えながら、子どもが死んだり、事故を起こさないように細心の注意が払われている。
そしてこの病巣は産婦人科という閉鎖系を超えてコンプライアンスという細菌を繁殖させ、訴訟社会に深く根を張っている。
殺人犯に訴訟を起こしても無意味だから、池田小の遺賊みたいなのが生まれてくるのだが、もはや「人を殺してはいけない」という個人の道徳は意味をなさず、あちこちに監視カメラを設置するような善管注意義務の問題へとシフトしているのである。
かつての顔見知りだけの地域共同体は瓦解したが、都市化されたわれわれはベンサムのパノプティコンのような見えない目線を内面化し、監視塔としての責務を果たすべく、監視して監視されながら、襟を正して生活している。

「治す気がない」という病的な連中が昔はもっとたくさんいた。
自分が箍の外れたクズである自覚はあるらしいが、治す気がさっぱりない怠惰が野放しにされる「おおらか」な時代だったのである。
変人がいたら放置していた。
そいつが犯罪を犯したとして、勝手に刑務所に行けということだった。
死刑になろうが知ったことではない。
今日では、われわれは自分が管理責任を問われることをとても心配しているから、監視塔として善管注意義務を発揮しており、これは正義感とはまた別だが、遺漏なく監視をし、管理責任を怠らない。
ひとりの市民として、不審者を警察に通報することが推奨されているし、本当の管理者であろうが無かろうが、そういう視点で社会の事象すべてを見ている。

治す気がないタイプの人間が、「治したい」と自ら強く願うとしたら、大きな主体的変革であり、人間としての成長である。
「治したい」と思うのは自分しかいない。
本気で願うのは容易くないからこそ、自らの蒙を啓く悟りであり、これまでの不明を恥じて、自己改革に乗り出す立派な行為である。
だが、われわれ監視塔としては、御本人がそのような主体的な改善をするまで待ってるわけにはいかないから、早めに善管注意義務を果たすべく、いろんな人を治療する。
これをひとつの社会の進歩として肯定的に捉えることも可能ではあろうし、「治す気がない」と「治したい」のせめぎあいを個々人に委ねるよりは、社会として早期治療したほうが妥当という意見もあろう。
いずれにせよ、これはわれわれが積極的に決めたのではなく、遺賊への畏怖から広まったシステムである。
露天商が火事を出した時に、福知山の遺賊は露天商をほったらかしにして、金の有りそうな商工会議所にマスコミを連れて押しかけたのだから、われわれもそれに対応しなければならない。







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