遊んでいると言われる状態でも、いわゆるリア充として青春を謳歌するようなものもあれば、腐って怠けている状態のこともある。
腐っている状態を「遊んでる」と言われても、なんか違和感があるわけである。
まったく楽しくないのになぜ「遊んでる」と言われなければならないのか、という疑問である。
とはいえ、時間を無駄にしているという点においては、繁華街で夜遊びして美人とセックスするのと、鬱々と空閨を託つ眠れない夜を過ごすのは同一である。
セックスしている人間と鬱々している人間が本当に同一のわけはないが、時間を無駄にするというのは、一括りにされて同一の罪状を問われて然るべきなのだろう。

それに、本当に同じという気もするのである。
「ヒトラーと同じ」というような誇張表現のレトリックがあるが、そういう誇張表現ではなく、繁華街で遊ぶのも、鬱々と部屋で時間をムダにするのも、自己の真実から遠いという点において同じである。

本当にやりたいことを見いだし、自らが辿り着くべき山紫水明の地を想見し、それを篋底に秘めている人間からすれば、繁華街で泥酔して暴れるとか、あるいはセックスしたとしても、それさえ程度が低い快楽であり、自らの決然たる歩みを止めようとする悪魔の誘惑でしか無い。

では、何も見出さないまま、夜中に鬱々と空閨を託っている人間はどうなのか。
ただ単に不細工だからリア充方面にいけないだけ、ということもあろうが、サボるという消極的な自由に耽溺しているのである。
サボタージュは楽しくはなく、腐って鬱々していて辛いのは間違いないが、義務を懈怠して虚無に遊弋する自由に、闇夜ならではの楽しみが一欠片もないとは言えまい。
こういうまさに腐った自由は、我が世の春を楽しむこととは対極だが、サボタージュすることで、あまりにも不完全ながらも、主体性を回復しているのである。

腐っていても何にもならないから、生きよう!と結論付けることは容易いが、これも民主党の公約のようなもので、うわべだけ綺羅びやかな文言を止処無く記述するのは造作無いことだが、自己啓発本のように糞の役にも立たないので、訝しげな解決法は提案しない。
歴史上の天才であれ、その人生の途次において腐って過ごした悩める端境期はあるだろうが、誰もがベートーベンの顰みに倣うことが出来るわけではないし、おそらく大半の人は、その煩悶から何も発見できない、もしくは発見するべきものを何も持ってないから、死ぬまでその怠惰に沈殿するしかない。







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