たとえば精神病院の前を歩いていたらキチガイが逃げ出してきて、そいつに顔面を殴られたとする。これが屈辱かというと決して屈辱ではない。人によっては命の危険を感じてトラウマになるかもしれないが、屈辱ではないのである。世の中の大半の暴力は正常である。児童虐待でさえ正常である。扶養されなければ死んでしまう人間という生き物に生まれたからこそ、その御家庭に似付かわしい正常運転に隷従しなければならない。学校でもクラスの中で生かしてもらうためにカースト下位に甘んじることもあるわけだ。これはなかなか不思議であり、ジョックがナードを養っているわけではないので、動物本能の要素が大きいかもしれない。動物の群れでも分配(力に応じた分配)の観念はあるだろうから、生かされているのだ。精神病院のキチガイに殴られても、(巨大地震や飛行機事故に居合わせたような恐怖はあるにしても)人間的な屈辱でなさそうなのは、その暴力が、われわれのカーストの低さを燻り出すものではないからだ。精神病院から逃げ出したキチガイに殴られたということなら、被害者がカースト下位だと思われることはないし、実行者は異常としてカテゴライズされるから、正常運転の暴力とは言えない。すべての暴力が、このようにキチガイ扱いされるのであれば、決してわれわれが内面でルサンチマンを育て、テロルの空想に耽ることもないのである。暴力を狂気と呼ぶのは容易いが、その発言に力を持たせるには、現実に狂人扱いして感化院や癲狂院の鉄格子の中に収容する必要があるし、それが無理であるから、たいていは正常運転として扱われる。他人に暴力を振るったこともない人がテロルの犠牲になるとすれば、誰かの弱さが晒し者にされる正常運転を目撃して証人となったカルマを背負っているからである。目撃者になる役割など引き受けたつもりはないが、いわばこの世界に存在していること自体が、その現象世界の公証人になるものであるから、証言台に立って仔細に語ることはないにしても、見てしまったのだから仕方がない。たとえば、誰もいないはずの部屋に入ったら、偉い人がオナニーしている場面に出くわしてしまったとする。それを見てしまったことは決して取り消せない。死ぬまで堅く口を閉ざすとしても、見てしまったことに変わりはないので、その偉い人から憎悪されることもあるだろう。世界中に周知されることはなくても、ひとりでも目撃者がいたら、それは現実と地続きになる。そもそも居合わせた人しか見てないのが現実であるし、今日ではインターネットが世界を網羅しているが、基本的にたいていの出来事は、地球人類全体を前に行われているわけではない。ひとりでも他人が居合わせれば現実だし、その目撃者が他言しないまま死んだとしても現実なのである。人影ひとつ見えないような森閑たる山奥で暮せばいいのかもしれないが、原則的にわれわれは目撃者としての役割を避けられない。暴力を見てしまったら、どうしようもないのである。見世物として楽しむにせよ、とても気の毒に思って心を痛めるにせよ、他人の恥辱に立ち会わされるのであり、その暴力の実行者が精神病院のキチガイでもない限り、この世界の「力」だと見なすしかない。正義か悪かは知らないが、灰色の理非で動いている人間世界において、正常運転の出来事なのである。







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