2016.12.31
常識人の不思議
常識人はたいてい察しが早く、そして気づいても何も言わないという特性を持っている。これがとても謎なのだが、そもそも説明されなくても理解するのが当然なのであろうし、あれこれおかしなことに気づいても違和感が少ないのであろう。おそらく違和感というのは性格的な傾向であり、かなり個人差がある。石頭というのは死語であるが、まさに軀として鳥葬に処されるべきであり、自らの正義をこじらせる人間は存在が許されない。心に発生した違和感が深く根を張る前に消してしまう柔軟性が必要だ。常識人はアスペルガーの執念深さとは縁遠いのであり、この世界の二重性、あれこれオブラードで包んで誤魔化している構造について、なんとなく察して、素直に受容したり、もしくはそれとなく退避して、そこで思考が止まっているのである。われわれは事実存在というレイヤーに存在していて、そこでの事実は事実なのである。熊沢天皇はニセモノだが、昭和天皇はホンモノである。天皇という事実性として、そう了解するのである。宇宙の真理に照らし合わせて事実が判明するのではなく、人間が天皇と定義したから天皇なのであり、そういう社会的なトートロジーで世の中は出来ているから、深く考えてもらっては困るのである。天皇そのものが幻想とか、国家は幻想とか、そこまでは考えない。あるいは、熊沢天皇と昭和天皇のようにわかりやすければいいが、この世の中にはもっと微妙な人がおり、というより、われわれそのものが微妙だったりするのだが、常識人はなんとなく裏と表を察しながらも徹底追及はしないものである。これは胡散臭い職業に限ったことではない。たとえば公務員は正統性・正当性の根源みたいなものだが、天下りとか、そういう問題は有耶無耶にされている。役人は専門的に細分化されているので、関係者限定の権力である。自らの業務と深く関わりのある役人に文句は言えなくても、無関係の人間が文句をいうのはまったく報復の恐れがないのだが、たとえば農業に無関係の人間が、農業の役人を追及するとしたら、やはり変わり者と言われる。われわれはそのような気まずさを望んでないのである。この世の中で社交辞令は必要とされているので、口は災いの元であると教え込まれている。天下りという言葉を覚えた子どもが「おじさんは天下りなの」とか親戚の集まりで追及したら、空気が凍るであろう。他人の後ろ暗いところが垣間見えても、ズケズケ言うのは殺伐とする。われわれは事実や本音が生々しく露呈される殺伐さを蛇蝎のごとく嫌っており、和気藹々としてやり過ごすことを望んでいる。人間が事実存在であるとしても、社交辞令の範囲として、お世辞や嘘は認められているわけで、少なくとも常識的な人間は、口に出してまで徹底追及しないのである。
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