なぜか知らないが、集団に絡まれたら全員を倒さないといけないらしい。先制攻撃でいきなりナイフで刺すとか、相手の眼球を潰して失明させるとか、そういうテロリストのような行為は正当防衛として認められていない。おそらく、絡む側は殺人が目的ではないから、正当防衛が成立しないということなのだろう。だから、あくまでヒーローとして力を見せつけて、集団を倒さなければならない。これはずいぶん奇妙な問題である。われわれはヒーローを待ちわびている。自分が英雄たらんとしてもいいし、正義の味方が英雄として現れてもいいが、そういう英雄的な解決を望んでいる。なぜか悪党集団はひとりで倒さなければならない。それが出来ないと「弱い」と言われてしまう。もちろんこの場合の「倒さなければならない」というのは実現不可能なノルマである。この空想的な願望の強さこそが問題の本質なのである。おかしな人間の妄想ではなく、人類が普遍的に持っている願望なのである。集団に絡まれた個人は弱者である。その憤激を晴らすべく眦を決し、テロリストのようにナイフで刺したりすることも考えるが、それを実行できないのも本能である。この衆寡敵せずというのが、人間の屈辱体験としてプリミティブであるらしいが、たとえばサッカーで11人と1人で試合をしろと言われることは、中学生でさえありえない。スポーツは社会的なものであるから、同じ人数でやろうという理性的な発想になる。理性と本能を峻別するのも、また本能であろうし、そもそも11人で1人を相手にゴールしても嬉しくないのは論を俟たない。スクールカーストのような暴力は、サッカーとは違うので、同じ人数で戦おうということは出来ない。11人で1人を相手に暴力で勝つようなことは、いわゆる村八分と言うべきか、サディストとしての歓びは大きい。このようにいたぶられる状況こそが英雄願望と結びつくのは、本能でそう決まっているのであろうが、この願望が、たとえばナードだけが篋底に秘める空想ではなく、幅広く漫画や映画などのフィクションで共有されているのは不可思議であり、普段は多数派でいるのが好きであるはずなのに、老若男女が映画館でそういう映画を喜んで見ているのは謎である。ひとりで多人数を蹴散らすヒーロー像が、大衆を相手にしたフィクションとして流通し、その理非を糺す姿が人気を得て、延々と反復されるのであるから、これが人間のストーリーの骨格なのであろう。われわれの価値判断はあらかじめ本能で決まっており、こうやって人間の皮を被る前の自分など無いのであるから、全身に神経毒が回るのも致し方あるまいし、本能を枉げることはできず、人間的な願望に憑かれて生きるしかない。







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