おだてることで粗製乱造されるのは「偉い人」である。不細工を美人だと褒めても美人にはならないが、「偉い人」なら可能である。われわれ人類は文明初期に社会契約など交わしてないし、社会が「偉い人」を中心とした身分制度から始まるのはそういうことだろう。おだてられても嬉しくないという人はごく普通にいる。おだてられて喜ぶかどうかは、おそらく多動性と関係しており、衝動的な性格傾向の問題である。衝動性と自己愛はなんとなく関係があり、やはり勘違いしている人間は焚き付けやすい。落ち着きのある聡明な人間をお世辞で動かすのはかなり難しい。天高く胴上げされてコンクリートの地面に打ち付けられるのはよくあることだし、相手の卑しい底意に察しがつくなら、嬉しいどころか警戒しなければならないし、不愉快にもなる。ではなぜ、おだてるという行為が横行しているのかといえば、おめでたい馬鹿がたくさんいるからだろう。他人が現実であり、現実が他人である。褒め言葉はすべて真札とも言えるので、輪転機をどれだけ回してもいいのだろうし、「勘違い」が対人関係に根を張るなら現実そのものである。おだてるのでもベクトルがいろいろとあり、おめでたい馬鹿から金銭を騙し取るのが目的であることもあれば、「用心棒」として使うこともある。おだてる側はボスではないので、用心棒がボスであるという状態が生じる。清原和博と元木大介の関係がわかりやすいが、清原は用心棒とボスを兼任している覇王である。おだてられることに飢えている人間は多々いるわけで、腕力や武力を恃みにされて戦いに駆り出されるのは嬉しいことなのである。そうやって気が大きくなって自己愛が膨らんだ状態こそが、本人にとっては快楽なのであろうし、おだてられて不愉快などとは寸毫たりとも思ってない。こういう御仁に「おだてられて操縦されている」とか指摘しても無意味である。ボスとして民衆の膏血を啜り、栄耀栄華を極めることだってあるのだから、本人にとってマイナスとは断定できず、そういうボスが世の中のいたるところにいて、利益を得ているのも事実だ。このような快楽主義者がいろいろと勘違いした結果として、覚醒剤に手を出して刑務所に行くこともあるだろうが、そうなるとは限らないから、有頂天になった人間を止めることはできない。おだてられて勘違いする衝動的な自己愛人間がボスになるのであるから、文明初期の建国神話は数多の文飾がほどこされた英雄崇拝となるが、現実に辿る歴史が惨憺たるものとなるのは論を俟たない。







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