多様性というのはポリコレ用語であり、優劣を付けたくない場合に使われる。だが、現実には優劣があるので、タテマエと現実の軋轢が生じてくる。すべての文明はそれぞれに個性があり優劣は付けられないというのは綺麗事であり、実際は文明は存亡を繰り返し、世界地図は頻繁に塗り替えられる。アーミッシュのように数が少なければ、隔離して保護することもできよう。どちらが優れているかを決める必要はあるまい。だがイスラムはいずれキリスト教の人口を追い抜くので、アーミッシュのように扱うわけにはいかない。文明の格差を棚上げにするのは「保護」という認識であるから、人権枠というか障害者福祉みたいなもので、このような保護として尊厳を守ってもらうべきか、それは疑問がある。キリスト教の慈悲にタダ乗りすることで本当に嬉しいのか、と首を捻るしかない。多様性というポリコレ的な言葉はずいぶん上から目線であり、やはり無意識に優劣を嗅ぎ取っているからこそ、それを打ち消すために多様性という単語が口の端に上るわけだ。ここでの優劣とは近代科学の水準という意味である。イスラムは科学文明としてレベルが低い。近代科学が大正義というわけでもあるまいし、近代科学は幻想であり、宗教こそが真実であるのかもしれない。問題なのは、近代科学の後進国から先進国へという人口の流れである。イスラム教徒でありながら近代科学の恩恵だけは受けようというのである。イスラム圏はたくさんあるのだから、そこでアーミッシュのように、物質文明から遠ざかった生き方をすればいい。イスラム難民の難しさは、先進国にやってくる動機が曖昧、というより、食い扶持の問題であろうが、精神文明から物質文明への移動に際して、科学へのリスペクトもなさそうだし、近代化への志も窺えない。人口が多すぎるので、イスラムをアーミッシュのように扱うことは出来ないし、またイスラムが言論の自由を認めているのかどうか疑問であり、近代社会もしくは近代科学への見解が問われるべきであろう。イスラム圏に住んでいる分には、文明に優劣を付ける必要がなく、遠くの異世界の案件であるから、いわば深山幽谷の地に棲まう仙人のように見做して、それこそ多様性という言葉で曖昧にしておけばよろしいが、やはり近代社会で混在するからには、多様性という魔法の言葉は濫用するべきではないし、文明の優劣・格差が問われる。日本人だって中世までは人文系の教養を中国から一生懸命学んだし、欧米の科学文明に憧れて近代化もしたのである。このような学ぶ姿勢もイスラムには欠如しているし、むしろ日本のような島国の劣等民族のほうが、異国の文化を取り込みながら頑張っていると言える。







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