2017.03.01

警察と時代

法律は量刑の重みだけでなく、警察が断固たる姿勢を取るかどうかが肝心である。われわれが共通の時代を生きて、似たような人間になるのは、法的存在だからである。決して六法全書を片手に行動しているわけではないし、条文など知りはしないが、警察の方針は知っている。獄卒と囚徒の関係は出来上がっており、それに従い、この地球という刑務所におけるわれわれの存在がある。その獄卒たる警察の方針は時代に応じて変化する。学校で体罰が横行していたのは警察が容認していたからであり、このところ体罰が手控えられるのは警察が容認しなくなったからである。世の中は警察が決めている。無味乾燥な法律より、その取り締りの「重点」を決める警察の方が偉い。この警察の恣意性は何とも言い難い問題である。法律に違反したら自動的に逮捕されるとなると、まず警察のキャパシティが足りないし、さらに裁判所や刑務所が決壊してしまうので、警察がそれなりに見逃しているのである。「全員を逮捕」するのではなく、一罰百戒というスタンスになる。見せしめにするのは不公平に思えるが、「全員を逮捕」は不可能なので致し方あるまい。体罰が悪いとされるようになったのは、師弟関係の形骸化である。戦前の人の物語を読んでいると、本当の師弟関係というものがある。弟子入りするような格好で誰かに教えを請うているのだ。これが戦後になってくると、「弟子入り」するような文化は完全に消え去るし、自分が選んだおぼえがない教師に割り当てられるだけである。昔の大人は面倒見がよく、赤の他人が教えを請うてくるのを食客として居候させることもあったが、戦後の教師は面倒見が悪い。やはり「弟子入り」してこそ師弟関係であろうし、この師弟関係の形骸化により、教師側の体罰がただのバイオレンスとして浮かび上がってきた。前述したように、世の中のルールは警察が決めているのだが、時代を眺めて野放図にさせた上で、その末路たる血腥い終章を飾るかのように総決算を行うことが多いようだ。体罰についても、師弟関係の形骸化による暴力の蔓延を何十年か放置して、理不尽さが積もりに積もってから介入することになった。援助交際とかWinnyもひとまず蔓延させて、しばらくしてから重い腰を上げるのである。時代の変化に対して即座に対応することは少なくて、問題が巨大化してからメスをいれることが多いようである。そしてわれわれは「見せしめ」を見ながら心を入れ替える、というか、否応なしに行動を制限されることになる。法律の条文を法律家として理解するのは難易度が高いが、誰でも見せしめというショーだけは見ており、文盲でさえそれに好奇心を持つから、識字より浸透度は高い。東京地検特捜部などはエポックメイキングとなる見せしめをやろうとしすぎて凋落したが、警察と違ってなまじ法律の専門家であるだけに、法律の条文とにらめっこして先走ったことをやりすぎた。法律に違反した人間に漏れなく手錠をかけて囚人とするのは不可能なので、見せしめによって法を大衆に周知する仕組み自体はこれからも変わるまい。世間の風紀が紊乱し、愚行や破廉恥が目に余るようになってから警察は動くから、後手後手に回ってしまうのであろう。社会は同一の状態にあるのではなく、経時的に組み替えられていくから、少しズレたら元通りに修正するというわけにもいくまいし、時代に泳がされて先に進み、死体の山が積み重なってようやく取り締まりが始まるのは、人倫としての理非はともかく、そうしておくしかないのであろう。







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