ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)が「プラグマティズム」を著したのは1907年である。
彼はハーバード大学で医学の学位を取得している理数系の人である。
五感で認識できないものが科学で次から次へと解明されるようになった時代を生きていた。
そういう科学的知見の合理性をどのように受け入れるかという議論をした書物と位置づけていいであろう。

彼はこれをオプティミズムでもなくペシミズムでもない「改善論」と位置づけている。
プラグマティズム(実利主義)によって世界は改善され、人類は救済されていくのである。

「プラグマティズム (岩波文庫)」W.ジェイムズ(桝田啓三郎訳)
オプティミズムはつねにヨーロッパ哲学における支配的な教説であった。ペシミズムはごく最近になってショーペンハウエルによって唱えられたばかりのもので、いまだ体系的な擁護者を少数しかもっていない。改善論は救済を必然的とも不可能とも説かない。それは救済を一つの可能性として扱うが、この可能性は、救済の現実的な条件が数多くなるにつれて、次第に蓋然性の度を加えると考える。
プラグマティズムが改善論に傾かざるをえないのは明らかである。世界救済の若干の条件は現実に存在しているのであって、プラグマティズムはこの事実に眼をおおうわけにはゆかない。もし残りの条件があらわれてきたならば、救済は完成した実在となるであろう。もちろん、私はいまこれらの言葉を甚だおおまかな意味で用いているのである。諸君は「救済」という語をいかようにも思いのままに解釈されてよいし、またこの救済ということを分布的に局所局所に起こる現象とも、あるいは危機にのぞんで全面的に生ずる現象とも、好むままに解してよいのである。


五感では検出できないことも科学では検出可能である。
たとえばかつて医師は細菌の存在など知らず、手を洗わなかったから産褥熱で死亡する妊婦が少なくなかった。
手洗いで産褥熱が防げると提唱したセンメルヴェイス・イグナーツ(1818-1865)という医師は、同時代人からとても憎まれ、精神病院で撲殺されて死亡したが、どちらが正しいかは後にコッホやパスツールが細菌学を築いてはっきりしたのである。
「プラグマティズム」が書かれたのは前述したように1907年だが、20世紀の幕開けにおいて、近代科学の合理性を称揚したとも言える。
(「プラグマティズム」で産褥熱の事例は引き合いに出されていないが、ジェイムズは生物学を研究していて、コッホやパスツールと同時代人だから、そういう時代背景あっての書物だろうと、補助線を引いてみただけである)。

批判主義の哲学的段階は、消極的な面では科学的段階よりも遥かに徹底するにいたったが、それだけに実際的な力の面ではなんら新しい視野をわれわれに与えていない。ロック、ヒューム、バークリー、カント、ヘーゲル、彼らは皆、自然の局部局部に光を投ずるという点では、全く不毛であった。事実わたくしは、彼ら独得の思想から直接に生まれたと思われるような発見ないし発明を何一つ考えることができない。バークリーのタール水にしても、カントの星雲説にしても、彼ら自身の哲学説とはなんのかかわりもないではないか。


われわれは人間は人体として存在しているが、この人体なる物差しであらゆる判断を下している。
人体が本当に実在しているのか定かではないし、われわれは身体性という現象世界を生きているだけであるが、細菌で病気になるとか、そういうのが科学で判明してくるので、ひとまず快-不快、生-死、薬-毒という対立軸の中でQOLをプラグマティック(実利的)に上昇させようとする。

五感が全てであるがゆえに、そこに引っかからない物事、たとえば細菌などを科学で検出して、身体の快適さの向上を試みているのである。
最先端の科学で原始的な感覚を快適にしていく。
アインシュタインはヒュームを愛読していたとされるが、ヒュームの感覚一元論がアインシュタインの相対性理論に繋がるのも、そのあたりであろう。
GPSは相対性理論のお陰でとても正確な数値が出るのだが、スマホでGPSを使っているわれわれの大半はその理論を知らないし、むしろ相対性理論の前の、素朴な三次元空間を生きている。

われわれが原発事故で大騒ぎするのも、放射能の危険性を科学で知っているからだ。
キューリー夫人でさえ放射性物質が人体に害悪であると気づかずに寿命を縮めたのであるから、素朴にわかる話ではないのである。
新しい科学的発見で世界が塗り替えられていくのだが、われわれはいつまでも素朴に実在しており、ずいぶん奇妙なことである。

「プラグマティズム」はすべてが合理性で説明できる理論だと誤解されている気がするのだが、あくまで改善論である。

ただ合理ずくめの世界などというものがあるとしたら、それは魔法帽子の世界、テレパシーの世界であろう。そこでなら、あらゆる欲望がたちどころに満たされ、周囲の力とか媒介力とかを考慮したり宥めたりする必要もありはしない。これこそ絶対者そのものの世界である。


科学的知見で改善されていく世界の実態を、そのまま認めただけと言ってもいい。

行ってみたこともないのに、日本が存在していると、ここにいるわれわれは推定している、われわれの知っているかぎりのことがことごとくその信念に組してなんらの妨げもしないから、つまり、日本の存在がそう推定させるからである。
(中略)
まことに真理は大部分が一種の信用組織によって生きている。われわれの思想や信念は、それを拒否するものがないかぎり、「通用する」。それはちょうど銀行手形がそれを拒む人のないかぎり通用するのと同じである。しかしこのことはすべて、どこかへ行けば目の前にじかに験証が見られるという黙契の上に成り立っているのであって、もしこの験証がなければ、かかる真理の構築は、なんら現金保有の裏づけをもたない金融組織と同じように、たちまち倒壊してしまう。

われわれは黄教授と小保方晴子はインチキで、山中教授こそ真理だと知っているわけだが、これは「信用」としての問題である。
専門家を除いては、真札-偽札を自分自身で検証するプロセスは省いている。
ひとりの人間の認識能力には限界があるので、それを集合知で補っている。

人間の努力というものは一日一日と世界を統合して行ってだんだんはっきりと組織化することに向かっている。こうして植民組織、郵便組織、領事組織、通商組織などができ上がった。これらの組織に所属する部分部分はすべて一定の影響力に服従しており、その影響力は、組織の外にある事実にまでは及ばないが、組織の内部ではだんだんひろがっていく。広い広い宇宙のなかに、世界のいろいろな部分の大規模な繫がり合いができ、またその内部に小さな繫がり合いが、言論上の小世界ばかりでなく実際活動上の小世界が、無数にできてくる。おのおのの組織は、それに属する部分をそれぞれ特殊な関係で縛っているのであるから、統合の一つの型ないし度合いを表わしている。


われわれはいつまでたっても全知全能の神にはならないし、特定の三次元の座標から遁れられない盲人ではあるのだが、自分の肉体の所在地とはまったく懸け離れた場所もプラグマティック(実利的)に認識している。
専門家ではないわれわれは、放射能とか細菌も自分で検証してはいないが、「知っている」のである。
人間社会では偽札が蔓延って腐敗することもあるが、だいたいはプラグマティズム(実利主義)において真札が勝利して、そちらが合理性を持つのである。







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