愛子さまの拒食症が深刻である。日本国民はこの長男夫妻については不満しか持っておらず、まったく同情してないから、折り合いがつかない。長男夫妻にプレッシャーを掛けて、軛を掛けるがごとく理想を押し付け、矯めつ眇めつ眺められる不自由な人生を強要し、挙句の果てに、自由に育てられた次男夫妻の方が結果を出し、長男夫妻が用済みとなる構図の理不尽さが、そのままに放置され見捨てられている。この痕跡器官が面当てとして壊死しようとしているのである。そもそも男系であれば秋篠宮の息子でも差支えないので、本来なら同等にプレッシャーがあるべきだったが、長男夫妻だけにその重責を担わせていたのであるから、あまり公平ではない。このあたりは時代の過渡期なのかもしれないが、期待に答えられなかった人間への蔑みの眼差しがあるわけだ。そして、この件について、雅子さまは人生を受け入れないというスタンスを取っている。決して納得はしないという強い感情が、適応障害を作り出している。人生に納得してもしなくても死ねば無であると思うのだが、そう考えない人が大半である。納得すると認めたことになるので、絶対に認めないというスタンスを取るのである。存在を余儀なくされてこそわれわれの人生はあるのだが、しかし秋篠宮とくらべてみると、あちらはずいぶん自由意志で存立して幸福そうに生きているから、こちら側としては受け入れ難いという感情があるのだろう。愛子さまの摂食障害も、母親の適応障害に付き合わされた恰好なのであろうが、長男夫妻を鞭打ったことを決して許さないという抵抗運動である。このような拒絶反応こそ人間そのものなので不思議ではないのだが、どこかで致し方ないという感情に落ち着いて諦めるのも人間である。幸福であろうが不幸であろうが、人生は仮初めという境地に至って、ひとまず現世を仮認定する形で最終的な魂への保留をするのである。死が無であるからこそ、人間は自己の永遠性を信じるのだが、しかし、死によって現世の状態が永続するとか、この短い人生を何億年も反芻するということはあり得ない。どのような諍いや擾乱も死によってノーゲームになるに決っている。自らにどのような烙印が押されようとも、それは現世での仮のものであるし、まさかこれが死後も永続はするまい。秋篠宮の幸福に永続性はない。とはいえ、雅子さまは寿命が尽きるまで「男子を産めなかった」という目線でずっと見られるのであろうし、その怨念を遺していくというのなら、それはそれで致し方があるまい。愛子さまの生命は今や怨霊を具現化するためにある。われわれは長男に過度な期待することに罪責感を持ってないし、反省するどころか、むしろ理想を踏みにじられた憎しみや、期待はずれへの蔑みが消えないのであるから、秋篠宮夫妻を愛でつつ、その一方で廃疾として放置されている腫れ物に対して、惻隠の情を催すことすら無いし、この問題で和解できるとは思えない。これからも日本国民と雅子さまの間で憎しみが絶えることはないから、身勝手な理想主義の結末として、双方が怨み骨髄に徹し、夢の跡が腐乱して瘴気を放ち続ける状態はさらに悪化するであろう。







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