言葉は本質的に「あれ」とか「これ」の世界である。
本当に同一かどうかは知らないし、お互いの頭部を開いて脳の中身を照らし合わせているわけではないが、同一だと信じて、その対象を「あれ」とか「これ」とか言っている。

痛いという言葉でさえ、他人の痛みがどんなものかは本当のところわからない。
あくまで同一であるという想定で「痛み」という単語は成り立っている。
そして、これは体験の同一性でもある。

この感覚、もしくは体験の同一性を疑っても仕方があるまい。
自分の歯痛と他人の歯痛は体験として同じだと思うしかない。
「あの体験」としてぴったりと重なり合うのである。

そして、その同一性の理解に加えて、それをあからさまに言うかどうかという問題まである。
ブスが精一杯厚化粧して現れたとして、われわれが「お綺麗ですね」とお世辞を言うこともあれば、空々しいからあえて黙っていることもあるだろうし、もしくは、相手によっては本音で揶揄することもあるだろう。
お世辞を言うか言わないか、このあたりの二重性も、ブスと美人という美的感覚の共有が前提である。
頭部のパーツの並びを「顔」として認識して、ブスとか美人とか大問題にしているわけである。
この認識の共有あってこその言葉であり、それを言うか言わないかという選択である。

もしくは「気まずい」という微妙な感情も、この二重性のためにある。
われわれは表面上は和気藹々とやっているが、それが白けることが多々あり、その空気が凍る感じを気まずいと言うわけである。
なにかしら「本当のこと」が露見してしまったから気まずいのだ。
変なところを目撃する・目撃されるとか、それも気まずさである。
アスペが入っている人、もしくは鈍感な人には、こういうのをいちいち説明する。
その説明が通じるとすれば、やはり言われれば思い当たるからであろう。
わざわざ説明されても思い当たらない重症のアスペだとどうなのか、それは知らない。
あるいは、このあたりの感覚を最初から察していて何も言わない人も不思議ではあるが、ともかく鋭敏な人から鈍感な人までだいたいが「気まずさ」を理解するから、「本当のこと」はズケズケと言わないようにしようと、お互いに言い聞かせ合うのである。
われわれの会話の多くは、このあたりのルール確認にも割かれる。
楽屋裏で「あの話はタブーだ」とか言い合う。
それが人生という芝居を成り立たせているのである。







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