2017.03.28
同一動作と動詞
動詞は同一の動作であることを前提としている。
自分が酒に酔うのと他人が酒に酔うのは同一である。
だからこそ「酔う」という動詞が使える。
悪酔いとか、もしくは船酔いと言う言葉も、誰もが同じ悪酔いや船酔いをイメージできることを前提としている。
つまり酔うという概念は伝えておらず、むしろ、酩酊して眩暈がするような体験がア・プリオリに同一であるから辛うじて伝わっているのである。
歩くとか走るという動詞は、誰しも同一の動作であり、誰しも同一の体験である。
膝が痛い状態で走るとして、これは誰でもイメージできるわけだ。
健康そのものという人間でさえも、膝が慢性的に痛い状態はイメージできるし、その膝痛は体験している、のである。
これは先入観の問題でもあり、やってみたら意外と簡単とか、意外としんどくて大変ということがある。
とはいえ、われわれはこの先入観に頼って生きているし、だいたい正しいのである。
このズレの問題については、たとえば、「本で読んだ知識は役に立たない」というような論に話を進めることも可能であるし、実体験するに越したことはないであろうが、だいたいはア・プリオリに知っているのである。
あるいは「セックス」という動詞について考えるとして、すべてのセックスは同一であると言うことも出来るし、すべては違うということも出来る。
一人の美人に飽きたから別の美人に移動ということで千人斬りしたとすれば、素朴な人生経験としては1000通りあるに決まっているし、その衣擦れの音や、襟足の匂い、褥に横たわる裸体を矯めつ眇めつ眺めやり、体位から閨房の語らいまでその微細な差異は多岐にわたるであろうが、おそらく女を替えると新鮮な体験として味わえる仕組みなのだろうし、飽きるのも仕組みであろう。
やはりセックスというひとつの言葉ですべてが括れる。
あらかじめ脳内にセットされた体験を体験しているだけである。
自分が酒に酔うのと他人が酒に酔うのは同一である。
だからこそ「酔う」という動詞が使える。
悪酔いとか、もしくは船酔いと言う言葉も、誰もが同じ悪酔いや船酔いをイメージできることを前提としている。
つまり酔うという概念は伝えておらず、むしろ、酩酊して眩暈がするような体験がア・プリオリに同一であるから辛うじて伝わっているのである。
歩くとか走るという動詞は、誰しも同一の動作であり、誰しも同一の体験である。
膝が痛い状態で走るとして、これは誰でもイメージできるわけだ。
健康そのものという人間でさえも、膝が慢性的に痛い状態はイメージできるし、その膝痛は体験している、のである。
これは先入観の問題でもあり、やってみたら意外と簡単とか、意外としんどくて大変ということがある。
とはいえ、われわれはこの先入観に頼って生きているし、だいたい正しいのである。
このズレの問題については、たとえば、「本で読んだ知識は役に立たない」というような論に話を進めることも可能であるし、実体験するに越したことはないであろうが、だいたいはア・プリオリに知っているのである。
あるいは「セックス」という動詞について考えるとして、すべてのセックスは同一であると言うことも出来るし、すべては違うということも出来る。
一人の美人に飽きたから別の美人に移動ということで千人斬りしたとすれば、素朴な人生経験としては1000通りあるに決まっているし、その衣擦れの音や、襟足の匂い、褥に横たわる裸体を矯めつ眇めつ眺めやり、体位から閨房の語らいまでその微細な差異は多岐にわたるであろうが、おそらく女を替えると新鮮な体験として味わえる仕組みなのだろうし、飽きるのも仕組みであろう。
やはりセックスというひとつの言葉ですべてが括れる。
あらかじめ脳内にセットされた体験を体験しているだけである。
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