「ドイツ・イデオロギー」マルクス/エンゲルス(花崎皋平訳)
労働が分割され始めるやいなや、各人は、ある特定の活動範囲だけにとどまるように強いられ、そこから抜け出すことが出来なくなる。
彼は猟師、漁夫、または牧人、または批判的批評家のいずれかであって、生活の手立てを失うまいと思えば、どこまでもそのいずれかであり続けねばならない。

これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をも持たず、どこでも好きな部門で自分の腕を磨くことが出来るのであって、社会が生産全般を統制しているのである。
だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、決して、猟師、漁夫、牧人、批判家にならなくてよいのである。


時たまダルビッシュとか為末大が、「自分のことに時間を使ってください」とか、それを言ったらおしまいという寒々しい発言をすることがある。
われわれが他人に首を突っ込むのは、自分には限界を感じているからだし、現実逃避として他人の応援に精を出すのだが、この逃避行動こそがスポーツ観戦なのだから、その興は削がない方が適切だし、アスリートとして生活しているのであれば、野次馬も致し方がないと思うべきであろう。

ネットで暇人と言われてしまう人は、自分に絶望しているのであろうし、それでいて溢れるばかりのエネルギーを持っている。
人生が詰んだという言い回しがあるが、どれだけ駄目人間であろうが、算数のドリルからやり直せば少しはマシになるはずだ。
それをしないのは、僅かに改善したところで何になるという認識なのだろう。
30点の自分を40点に改善しても意味がないと思っているらしく、しかし本当の自分にふさわしい煌めくような人生がどこかにあると爛々と目を光らせる野心家なのであり、そうかと言って、自分ではやることがないから、他人に取り憑こうとするのである。

戦後の教育ママという現象は、専業主婦の家事労働の負担が減って時間が有り余っていたからであろう。
最近であれば、共働きで忙しいかもしれないし、昔のような母親は減ったという漠たる印象はある。
労働によって人間が疎外されるとマルクスは言ったが、どっちみち自分でやることなど無い人が大半であろうし、自由時間という地獄から人間を救済するために労働があるとも言える。
常識的な人間でも何らかの理由で膨大な自由時間を与えられたら、ネットで大暴れしないまでも、持て余すことはあるに違いない。
やはり人間は他人に関わることに飢えており、この飢えを有効活用するためには、資本に雇われて言われた仕事をやるのが需要と供給をマッチさせるのであろう。







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