2017.04.29
威張る人間を止める根拠が無いので、こちらも対抗して威張る
威張るという愚行が世の中を支配している。その大廈高楼のように聳え立つ虚像に睥睨されつつ、ひとりの窮民として「お願いだから威張らないでください」と頼んでも無駄であるし、血腥い凶行に及ぶことなく反撃するとすれば、威張り返すくらいしかない。お互いに何様のつもりだと罵り合ってイーブンにするしかないのである。あまりにもくだらない話であるが、誰が偉いのか、というのがまったく決まってないからこそ、人類というゲームが成り立っている。このゲームをやりたいわけではないし、むしろスイッチを押したら自分自身が消えるのなら喜んで押すけれども、轢死体のような惨たらしい姿にならずに自殺する手段は封じられているし、不承不承このゲームの続行を受諾しているのである。なぜ人類いたるところに身分制度があるかというと、身分などないからである。誰も偉くないから身分制度がある。偉い人と偉そうな人の区別がつかないだけでなく、そもそも人類史において偉い人はかつてひとりも存在してないし、あくまで偉そうな人しかいない。偉くない囚人が雑居房に放り込まれて、そこから自らの縄張りを形成していくのであるから、誰が誰にマウントを取ってもおかしくないし、どのようなカーストも成り立ち得るし、もしくは覆す余地はある。偉い人に反抗してひどい火傷を負ったという人もいるだろうから、卑屈に振る舞うのも生存戦略ではあるけれども、偉い人が存命中に失脚することだって普通にあるし、そうでなければ、人間の寿命が短いので、なんとか勝ち逃げして、棺桶から勝利宣言するだけである。死んだら無であるのに勝ち逃げもくそもないが、せいぜいその勝ち方しかなく、また寿命だけが物差しであるから、その尺でわれわれの人生という体感は満たされており、歴史書を書き綴ったり紐解いたり出来るとしても、不老長寿の立場から栄枯盛衰を眺めるわけにもいかず、偉いとか偉くないとか流転する虚しさを見通す具眼者にはなれないので、生きているからには、花鳥風月や山岳信仰とは別の、この生々しい俗悪なエゴにまみれた生命体として威張り合うしかないのである。
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