2017.06.10
なぜ南條愛乃さんは美しいのか
おそらくこの二年くらい、わたしはほぼ毎日欠かさず南條愛乃さんの動画を見ていると思うのだが、なにしろ実物が不細工なババアなので、未だに飽きないのが不思議である。ポージングの美しさに尽きるのであるが、その本質は静止である。何が美しいのか、というのは、あらかじめ決められている。美しいから美しいというトートロジーである。137億年前に宇宙が始まった時にそんなものは決まっていないから、あくまで地球上の生命体の感性の問題である。たとえば目と鼻と口という並びに根拠はあるまいが、違う並びの人がいたらグロなわけであり、その基準はなんぞやといえば、進化の偶然性であろうし、どこかで発生した美的感覚において美であれば美なのである。美的感覚が主役であり、生命はそれに従う。動作の美に関しての最大の法則は、挙動不審は見苦しいということである。ADHDが教師から馬鹿にされるのは、身体が勝手に動いているからである。わかりやすい事例は貧乏ゆすりだが、しっかりしているタイプの人間はそういうダラダラした動きはしない。なぜ静止が美しく、貧乏ゆすりが醜いのかというと、これはそう決っているからである。中枢神経がコントロールされているときちんと静止しているのだが、EQ的にオツムが緩いと、いわば死体の痙攣のように身体が勝手に動いている不気味さがある。静止というのは動作と対極と見られがちだが、動きの美しさという意味では、どちらも同じである。南條愛乃さんは、静止状態がきちんとしており、余計な動作がない。それでいて、堅苦しさは寸毫たりとも無いのである。ADHDが無理矢理に座らされているのではなく、姿勢が本当にきちんとしているからである。道元禅師が坐禅を苦にすることがないように、南條愛乃さんの折り目正しく凛とした立ち姿は、人類普遍の美学に従って誂えたものであるから、これが窮屈であるはずがない。正装で折り目正しい立ち振舞いをすることに苦痛がないから、肉体が飢え渇いて貪ろうとする騒擾や葛藤とは無縁であり、これは至って無我の境地である。天体の運行のような調和があり、山岳信仰のような端然とした崇高さがある。たとえばアドリブで動いたりしても、美しさはひとつも減じない。南條愛乃さんが動くことで、静止状態が破綻することは微塵たりとも無いのである。制御の糸が切れたような余計な動きがないことが重要である。本人が不細工なババアであるということは、ここではまったく問題ではなく、いわば歌舞伎の女形のように、美の理法を授けられた演者として、その本質を体現していればいいのである。どれが「余計な動き」でどれが「余計でない動き」なのかを言葉で説明するのは難しいが、われわれの美的感覚としては、見るだけですんなり腑に落ちる問題である。邪悪な精神が身体動作の軌道を枉げているなら、それは余計だと言うしかない。
スポンサードリンク