2017.06.17
刑罰の計算可能性
ニーチェが言うには、というより、ニーチェが言わなくても誰かが言うであろうことだが、人間は計算可能な存在でなければならず、そのために、刑罰で記憶を刻みつける必要がある。
刑罰(苦痛)の記憶がわれわれを存在させている。
そして他人を罰するのは快楽であり、自ら鞭を振り回さずとも、官憲が他人を罰するのを眺めるだけで快楽が得られる。
刑罰がなぜ罪を贖うことになるのかと言えば、罰するのが快楽だからである、とニーチェは言う。
残酷さは悦びなのである。
他人が鞭打たれて苦悶するのは楽しい。
だから刑罰の記憶は、刑罰を見る側の楽しさの記憶でもある。
稀代の悪党を刎ねて梟首台に載せるような事例だけでなく、無辜の女性を異端審問で火炙りにするのも楽しい。
ヨーロッパ人が死刑を批判するのは、過去に楽しみすぎたので疚しいのであろうと思われる。
敷衍して言うなら、このような具合での刑罰という娯楽の肯定、火炙りなどの不穏なものでなくとも、ごく普通に刑務所があるからには、われわれは囚人なのである。
われわれは誰かが逮捕されると「他人事」として快哉を上げて、その三面記事のドラマを娯楽として楽しむから、管理されている自覚がない。
なぜたいていの人が刑務所と無縁なのか考えてもらいたい。
誰かが生け贄になる事例を備忘録に書き留めながら、投獄されないように計算しているからである。
自らの意志を実行に移した際に、あの畏怖をもって聳え立つ刑務所の檻に繋がれるかどうかは計算できる。
われわれは刑務所に入らないための計算問題に支配されている。
市民社会という開放病練は檻の中よりは自由だが、踏み外せば鉄格子に囲まれる。
檻の中も外側も同一の教条で貫かれ、あちこちに同じ聖典を携えた教誨師がいる。
あれこれと制約がある息苦しさを、いわば言葉の発明により、美しい詩文で書き綴り、心境の変化として反映させて、人間的な煩悶を高潔な禁欲主義に昇華することはできる。
そのような美化を虚無への意志とか生の否定とニーチェなら言うのかもしれないが、いずれにせよ人間は不自由であり、その不自由への解釈の問題なのである。
刑罰(苦痛)の記憶がわれわれを存在させている。
そして他人を罰するのは快楽であり、自ら鞭を振り回さずとも、官憲が他人を罰するのを眺めるだけで快楽が得られる。
刑罰がなぜ罪を贖うことになるのかと言えば、罰するのが快楽だからである、とニーチェは言う。
残酷さは悦びなのである。
他人が鞭打たれて苦悶するのは楽しい。
だから刑罰の記憶は、刑罰を見る側の楽しさの記憶でもある。
稀代の悪党を刎ねて梟首台に載せるような事例だけでなく、無辜の女性を異端審問で火炙りにするのも楽しい。
ヨーロッパ人が死刑を批判するのは、過去に楽しみすぎたので疚しいのであろうと思われる。
敷衍して言うなら、このような具合での刑罰という娯楽の肯定、火炙りなどの不穏なものでなくとも、ごく普通に刑務所があるからには、われわれは囚人なのである。
われわれは誰かが逮捕されると「他人事」として快哉を上げて、その三面記事のドラマを娯楽として楽しむから、管理されている自覚がない。
なぜたいていの人が刑務所と無縁なのか考えてもらいたい。
誰かが生け贄になる事例を備忘録に書き留めながら、投獄されないように計算しているからである。
自らの意志を実行に移した際に、あの畏怖をもって聳え立つ刑務所の檻に繋がれるかどうかは計算できる。
われわれは刑務所に入らないための計算問題に支配されている。
市民社会という開放病練は檻の中よりは自由だが、踏み外せば鉄格子に囲まれる。
檻の中も外側も同一の教条で貫かれ、あちこちに同じ聖典を携えた教誨師がいる。
あれこれと制約がある息苦しさを、いわば言葉の発明により、美しい詩文で書き綴り、心境の変化として反映させて、人間的な煩悶を高潔な禁欲主義に昇華することはできる。
そのような美化を虚無への意志とか生の否定とニーチェなら言うのかもしれないが、いずれにせよ人間は不自由であり、その不自由への解釈の問題なのである。
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