2017.06.24
ひょうきん者の終焉
昔であれば、馬鹿をひょうきん者として面白がることは普通だった。
もちろん馬鹿を蛇蝎のごとく嫌う人間はたくさんいたが、面白がって受容する人も少なからずいたのである。
今日だと、馬鹿を迂闊に面白がってしまうと、馬鹿が自爆した時に累が及ぶ可能性があり、得体の知れない管理責任が立ち現れてくることもある。
共犯者というだけでなく、善管注意義務や管理責任というところまで潔白であらねばならないから、馬鹿を面白がることなど出来ない。
馬鹿は無資力なので、金の有りそうな責任者を探す訴訟社会が勃興したということであるが、もはや当人をスルーして、いきなり管理責任者に非難が押し寄せる。
人間はその時代背景に縛られて生きているのだが、2017年現在で言えば、馬鹿と関わらないのが求められる。
われわれはもはや個々人の道徳は気にしておらず、ただひたすら管理責任の目線で見ている。
かつて人間の言動を個々人の善悪として完結させていたのは、野放図で粗野な社会とも言えるし、このところ社会的責任という集団的観念が強くなってきたのは、社会の成熟とも言えるのだが、この価値観の根底にあるのは民事訴訟への畏怖である。
発達障害というものが障害として立ち現れてきたのも、もはや馬鹿は黒死病、もしくは、居合わせたら自爆に巻き込まれる危険性が増しており、われわれは馬鹿が自爆しないように教育したり、出来る限り距離を置いたり、ともかく爆発に巻き込まれないようにしている。
中国のような後進国でも人肉検索なるものが流行っているそうで、何か問題を起こした人間を徹底的に暴き立てる正義が台頭しているらしい。
一人っ子政策があるから、人間が簡単に死んだりするわけにはいかないのだろう。
誰しも社会的責任を玩具とし、社会的制裁を愉しむ思想警察である。
ドナルド・トランプが大統領になれたのは、今のところ有権者がコンプライアンスを問われることがないからであり、善管注意義務を放棄した上で投票できるからである。
民間のコンプライアンスが非常にうるさいので、それに対する反動が政治的に浮かび上がってきている。
もし有権者が自らの投票行動について責任を求められるとしたら、できるだけ無難な人を選ぶということになるだろう。
もちろん馬鹿を蛇蝎のごとく嫌う人間はたくさんいたが、面白がって受容する人も少なからずいたのである。
今日だと、馬鹿を迂闊に面白がってしまうと、馬鹿が自爆した時に累が及ぶ可能性があり、得体の知れない管理責任が立ち現れてくることもある。
共犯者というだけでなく、善管注意義務や管理責任というところまで潔白であらねばならないから、馬鹿を面白がることなど出来ない。
馬鹿は無資力なので、金の有りそうな責任者を探す訴訟社会が勃興したということであるが、もはや当人をスルーして、いきなり管理責任者に非難が押し寄せる。
人間はその時代背景に縛られて生きているのだが、2017年現在で言えば、馬鹿と関わらないのが求められる。
われわれはもはや個々人の道徳は気にしておらず、ただひたすら管理責任の目線で見ている。
かつて人間の言動を個々人の善悪として完結させていたのは、野放図で粗野な社会とも言えるし、このところ社会的責任という集団的観念が強くなってきたのは、社会の成熟とも言えるのだが、この価値観の根底にあるのは民事訴訟への畏怖である。
発達障害というものが障害として立ち現れてきたのも、もはや馬鹿は黒死病、もしくは、居合わせたら自爆に巻き込まれる危険性が増しており、われわれは馬鹿が自爆しないように教育したり、出来る限り距離を置いたり、ともかく爆発に巻き込まれないようにしている。
中国のような後進国でも人肉検索なるものが流行っているそうで、何か問題を起こした人間を徹底的に暴き立てる正義が台頭しているらしい。
一人っ子政策があるから、人間が簡単に死んだりするわけにはいかないのだろう。
誰しも社会的責任を玩具とし、社会的制裁を愉しむ思想警察である。
ドナルド・トランプが大統領になれたのは、今のところ有権者がコンプライアンスを問われることがないからであり、善管注意義務を放棄した上で投票できるからである。
民間のコンプライアンスが非常にうるさいので、それに対する反動が政治的に浮かび上がってきている。
もし有権者が自らの投票行動について責任を求められるとしたら、できるだけ無難な人を選ぶということになるだろう。
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