われわれは自明性をもって存在している。
わかりきっているのである。
やがて生きているうちに、一万円札は本当に一万円札だろうかという具合に、あれこれ自明性に疑問が生じてくるわけで、その哲学的な目覚めとともに、この世界は幻想であろうと思ったりして、この根無し草の存在について考えるのだが、やはり自明性に立ち返るしかなく、美人は美人でブスはブスという結論に落ち着く。
人間的な物差しがわれわれの脳味噌に組み込まれている、もしくはわれわれは物差しそのものである。
美人とかブスとか物差しで測って、それに対応した印象や、性交の空想なども含めて、それは肉体的な重みを持つ。

そして、俗事に取り巻かれていると、その自明性に没入するしかなくなる。
その俗事が他人事ではなく、まさに自分自身の経験するべき問題であるとするなら、山紫水明の仙境から俗界を想うようなことは出来ない。
この俗世間で形成されている事実性について、土を掘り返して根はないと言い立てることは無益であるし、そんなことは誰でも知っていることであるから、たとえば紙に一万円と印刷してあるとして、それが真札か偽札かというのは、社会的事実、もしくは社会的な信用の循環として明らかな答えがある。
俗世の煙塵を肺腑に染み渡らせつつ、ホンモノの一万円札を手にして、それに価値を感じるのは自明性なのである。

本能を否定するのも社会であるし、たとえばどの文明も身分制度から始まるが、やがてそれを廃止することになるわけである。
奴隷制の廃止は、それこそ一万円札が無効になるような出来事だが、これは個人の頭の中の操作で切り替わるものではなく、肉体的な重みを持って動いている現実が、それだけの歴史的なムーブメントとして変わるかどうかなのである。
頭の中で、諸々の事象を紙切れにしてみても、それは至って無益な試みである。







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