たとえば100メートル9秒で走れるとする。これが人間であれば人類最速と褒めそやされるであろう。だが犬や猫で100メートル9秒だと遅すぎるに違いない。同じ生物種であれば、だいたい似たり寄ったりのスペックであり、すべて同じと言ってもいいくらいなのだが、動物だって優劣を競い合う。優劣は性欲という意味では実在感があり、セックスが出来るならどんな相手でもいいということはなく、優れた相手との結合が究極の快楽となる。特に人間であれば、社会的なものも含め、その差異に基づいた市場価値が付いて、首から値札をぶら下げながら個体としての個性を持たされるのである。憧れの人の肢体に触れようという本能は、見栄や虚飾としては切り捨てられない熱病であり、それこそが人間存在である。光風霽月たる白皙の美青年ならどんな女でも日常性の延長で手に入るのであろうが、たいていの人にとって眷恋の対象は嶮岨な山道、もしくは原理的に扉が開かない掟の門のように立ちはだかる。

自らを呪詛しつつ、この不可能性をオンリーワンな独自基準で乗り越えようとするのがサブカルチャーである。普通であれば、足が速い遅いとか、背が高い低いとか、顔の美醜であるとか、知能の高い低いとか、そういう世俗の基準で生きているのだが、この世俗的な基準だと劣ってしまう人が、サブカルチャーに流れ着いてくる。

宮﨑駿とか庵野秀明は一歩間違えればただの障がい者だが、だからこそサブカルのスターなのである。サブカルチャーにはこういう世俗的な価値を逆転したスターがいる一方で、はるかぜ親子や有村悠さんのようなサブカル人間を作り出してしまう。冒頭で述べたように100メートル9秒だとすごいとされるのは、人類の中での個体差の優劣であるから、根拠があると言えばあるし、根拠が無いと言えば無い。あくまで比較した場合に出現する凄さであり、100メートル9秒それ自体が凄いとは言えないからだ。このあたりは意外と曖昧である、もしくはただの肉体性能の設定に過ぎないのだから、その空隙を縫うようにして虚ろな自己愛が生々しく繁殖するのであろうし、愚にもつかない空想が遊弋し内面世界が瘴気を放つのである。束の間の午睡の間でさえ、まどろみながら薔薇色の人生を生きることがあるのだから、この獄舎のような肉体の設定から解き放たれれば何にでもなれるとも言える。そのファンタジーを現実世界にまで垂れ流すのがサブカル人間である。さすがに160センチの人間が「俺は180センチ」と主張するのは出来ないが、どう考えても知能の低い人間が「俺は本当は頭がいい」と主張するのはよくあることだ。「本当は100メートル9秒で走れる」と言い張って走らない、というのは文字通りだと無理があるが、こういう「本当はできる」という欺瞞を抱えている人ならたくさんいる。これが重病であるほどサブカルチャーへの親和性が高くなる。

はるかぜババアは大卒らしいが、もちろんこれは詐称であろう。有村悠さんも大卒らしいが、もちろんこれも詐称である。有村さんが東大に合格したのは事実だが、空手部に体験入部したら全身複雑骨折で不具者になったようなものだし、これで空手部を名乗られても困るわけだ。とはいえ、そもそも大学というのも設定である。小保方晴子だってAO大卒だしコネ理研だし、そしてサブカルである。わざわざ慶應AOを選択したTehu君もサブカルである。何かしら現実の自分を空想的に改変しようという邪心こそが業病であることに贅言を費やす必要はあるまい。ラスプーチンは血友病を治せるという設定でロシアの皇帝一家に取り入ったが、人間は肉体に縛られているからこそ超越を願い、百鬼夜行というべきおどろおどろしさが現実を蝕みつつ徘徊するのである。







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