2017.07.24
同じ属性で集団を作らせてマウント大会をさせる
だいたい世界のどこでも似たり寄ったりだと思うから、かなり本能的な判断であろうが、われわれは人間を同じ属性でまとめて集団を作らせて、マウント大会をさせるようである。
学校のクラスなどはその典型だが、おそらくそれだけにとどまるまい。
ママ友同士の人間関係にパパが介入することはないであろう。
これは自治の尊重なのである。
われわれが本当に自治を好んでいるかというとかなり怪しいし、マウントされる側としてはウンザリであろうが、しかし外部の視線を入れるべきではないという発想も根強い。
女同士の人間関係を傍目から見ていておかしいと思っても、それに口を挟む男はまずいない。
われわれはなぜか自治へのこだわりがあるのである。
自治が好きなわけではないし、このところ地域共同体が崩壊したのも、近所付き合いというマウント大会にウンザリしたからであろう。
「子どもの喧嘩に大人が口を出すな」という意見はそれなりに適切であろうし、恣意的に口を挟むなら公平性を欠くであろう。
では大人がずっと見ていて、できるだけ公平な判断をすればいいのか、というと、これも難しい問題である。
たぶん古今東西から、そんなことはしてないであろう。
大人は見てない、あるいは見て見ぬふりをして、子どもだけの世界が作られていくのである。
この自治感覚の問題はさほど明示的に意識されているとは思えないが、それだけ根深いのである。
マウント大会は、全人類が入り乱れて戦うバトルロワイヤルではなく、何かしら同じ属性の人間でまとめられ、密室的な閉鎖空間で行われるのである。
マウント大会の中で友達もできるのだし、「友達を作れ」というのだが、これはなんというか、マウント大会で敗北してハブられた人間への蔑みという側面も含んでいる。
同じ属性の人間との間で生まれる友情が偽りだとは言わないが、「友達を作れ」というのは、おそらく勝者を礼賛しているだけであり、敗者をなじっているわけだ。
たとえばご近所さんと仲良くなることもあるが、村八分にされることだってある。
だいたい仲の良いご近所さんとやらは、マウント強者の連合だったりする。
だから近所付き合いを煩わしいと思って、関わらないことにしたのであるし、マウント大会からの離脱というのは社会の進歩としてあり得るかもしれないのである。
人間が本能的にやりたいことは決してなくならないが、マウント大会についてはウンザリしている人も多いはずなので、時代とともに変化しうる。
学校のクラスなどはその典型だが、おそらくそれだけにとどまるまい。
ママ友同士の人間関係にパパが介入することはないであろう。
これは自治の尊重なのである。
われわれが本当に自治を好んでいるかというとかなり怪しいし、マウントされる側としてはウンザリであろうが、しかし外部の視線を入れるべきではないという発想も根強い。
女同士の人間関係を傍目から見ていておかしいと思っても、それに口を挟む男はまずいない。
われわれはなぜか自治へのこだわりがあるのである。
自治が好きなわけではないし、このところ地域共同体が崩壊したのも、近所付き合いというマウント大会にウンザリしたからであろう。
「子どもの喧嘩に大人が口を出すな」という意見はそれなりに適切であろうし、恣意的に口を挟むなら公平性を欠くであろう。
では大人がずっと見ていて、できるだけ公平な判断をすればいいのか、というと、これも難しい問題である。
たぶん古今東西から、そんなことはしてないであろう。
大人は見てない、あるいは見て見ぬふりをして、子どもだけの世界が作られていくのである。
この自治感覚の問題はさほど明示的に意識されているとは思えないが、それだけ根深いのである。
マウント大会は、全人類が入り乱れて戦うバトルロワイヤルではなく、何かしら同じ属性の人間でまとめられ、密室的な閉鎖空間で行われるのである。
マウント大会の中で友達もできるのだし、「友達を作れ」というのだが、これはなんというか、マウント大会で敗北してハブられた人間への蔑みという側面も含んでいる。
同じ属性の人間との間で生まれる友情が偽りだとは言わないが、「友達を作れ」というのは、おそらく勝者を礼賛しているだけであり、敗者をなじっているわけだ。
たとえばご近所さんと仲良くなることもあるが、村八分にされることだってある。
だいたい仲の良いご近所さんとやらは、マウント強者の連合だったりする。
だから近所付き合いを煩わしいと思って、関わらないことにしたのであるし、マウント大会からの離脱というのは社会の進歩としてあり得るかもしれないのである。
人間が本能的にやりたいことは決してなくならないが、マウント大会についてはウンザリしている人も多いはずなので、時代とともに変化しうる。
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