2017.07.27
必要/不要。賢明さ。自己制御。
人間が賢明であるかどうかについて、たとえば必要/不要の判断ができるか、という問題があろう。
この必要/不要というのは、0か1で区別できるわけではなく、匙加減も求められる。
オッサンが身だしなみにどれくらいの時間を掛けるか、という場合、0時間というのもひとつの回答である。
気を使ったところで女を抱けるのでもないなら、0時間が正答とも言いうる。
これは、其の人が自分の立場を考えた上での戦略であり、なぜオッサンを事例にしているかというと、ファッションモデルとかなら、身だしなみに使うのがそれこそ一日5時間でもいいだろうし、労力に見合うだけ売れたり、女を抱けるかもしれない。
つまり女を抱ける可能性もないそこらのオッサンならほどほどでいいだろう、ということで匙加減の話をしているわけだ。
自らの立場に似付かわしい身だしなみをイメージできるかが問題である。
そして、こういう賢明さは、自己制御の問題でもある。
清潔感のある身だしなみが必要な立場であるのに、ものぐさで怠ってしまうこともあろう。
つまり必要/不要の判断だけでなく、その判断に従って、髪を洗ったり風呂に入ったりしなければならないのだ。
「一日に一回くらいは髪を洗わないと」と言いながらまったく怠っているのでは愚かと言うしかない。
怠るとすれば、身体性の感覚が不十分なのであろうし、なんとなく「一日に一回くらいは髪を洗わないと」と理屈で言っているだけなのだ。
自らの身体性をきちんと捉えた上で、ファッションモデルとは全く違う、オッサンなりの最低限の清潔さを把握できるかどうかなのである。
口だけになってしまうひとは感覚をつかめてない、この文脈で言えば身だしなみの感覚だが、その感覚に照らし合わせる賢明さがない、もしくは照らし合わせるべき感覚がない、あるいは感覚を育てる賢明さがないのだが、愚かさの根源はそこなのである。
自己制御というのは、獄につながれて鞭で打たれ、首にぶら下がった鑑札の番号で呼ばれ、一挙手一投足を獄卒の言うとおりにすることではないはずだが、口だけの人は、だいたいそういうレベルであるから努力が苦痛なのであるし、鞭で打つ人間がいないなら平気で怠けるのである。
この必要/不要というのは、0か1で区別できるわけではなく、匙加減も求められる。
オッサンが身だしなみにどれくらいの時間を掛けるか、という場合、0時間というのもひとつの回答である。
気を使ったところで女を抱けるのでもないなら、0時間が正答とも言いうる。
これは、其の人が自分の立場を考えた上での戦略であり、なぜオッサンを事例にしているかというと、ファッションモデルとかなら、身だしなみに使うのがそれこそ一日5時間でもいいだろうし、労力に見合うだけ売れたり、女を抱けるかもしれない。
つまり女を抱ける可能性もないそこらのオッサンならほどほどでいいだろう、ということで匙加減の話をしているわけだ。
自らの立場に似付かわしい身だしなみをイメージできるかが問題である。
そして、こういう賢明さは、自己制御の問題でもある。
清潔感のある身だしなみが必要な立場であるのに、ものぐさで怠ってしまうこともあろう。
つまり必要/不要の判断だけでなく、その判断に従って、髪を洗ったり風呂に入ったりしなければならないのだ。
「一日に一回くらいは髪を洗わないと」と言いながらまったく怠っているのでは愚かと言うしかない。
怠るとすれば、身体性の感覚が不十分なのであろうし、なんとなく「一日に一回くらいは髪を洗わないと」と理屈で言っているだけなのだ。
自らの身体性をきちんと捉えた上で、ファッションモデルとは全く違う、オッサンなりの最低限の清潔さを把握できるかどうかなのである。
口だけになってしまうひとは感覚をつかめてない、この文脈で言えば身だしなみの感覚だが、その感覚に照らし合わせる賢明さがない、もしくは照らし合わせるべき感覚がない、あるいは感覚を育てる賢明さがないのだが、愚かさの根源はそこなのである。
自己制御というのは、獄につながれて鞭で打たれ、首にぶら下がった鑑札の番号で呼ばれ、一挙手一投足を獄卒の言うとおりにすることではないはずだが、口だけの人は、だいたいそういうレベルであるから努力が苦痛なのであるし、鞭で打つ人間がいないなら平気で怠けるのである。
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