神経症という言葉が死語になったのは、DSMの名付け方の問題ではなく、根本的にこのようなメンタリティが社会から消えつつあるからである。
現況と反りが悪い強迫観念を抱いているような存在の在り方が認められなくなった。
これは社会の流動性の問題でもあるし、一昔前であれば決まりきったことしかやらない義務感の強さが高く評価されたのである。
合理性がないことでさえ、義務であるとして徹底的にやることが求められた。
反復強迫とは、どれだけ空回りしても義務を実行することであるし、遺骸に絡みつく亡霊であり続ける不合理さこそが人間ということだったのである。

精神的に抑圧されることがなくなった2017年現在になってもまだ怒り狂っているのは、神経症的な義務に囚われる美学に酔っている時代遅れであるか、そうでなければアスペルガー症候群の類であろう。
頻繁に怒り狂う人は、状況の変化に対して、頭と心を整理することが出来ない。
あらかじめ決めた予定が究極の目標という認識をしているのである。
そういう義務感に満ちた認識は、今日においては正しくない。

怒りの頻度が高い人は、神経症的に未来を決め込んでいる。
これは賢明さから極めて遠い状態にあると言える。
何かしらマイナスの出来事が発生したら、その塵芥は夙に壊死したものと断念し、社稷墟となるにまかせ、新たに蚕食すべき大地を検索し思考を這わせる、もしくはあらかじめ考えておかなければならない。
殉教に値する信念などこの世にはないのだから、理想にそぐわないとして怒る理由などまったくない。

気持ちを切り替えるという言い回しがあるが、神経症という拘束具が外れた現在では、たいていの人はそれができる。
局面が変わったなら、その状況を把握して、自己認識と世界認識を組み直す必要がある。
空間は曲がるそうだが、世界も曲がる。
世界は固定ではないし、自己を枉げるとそれに応じて変化するのである。







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