2017.09.26
好き嫌いの根本的な思い違い
われわれはおそらく好き嫌いについて根本的に思い違いをしているのである。
たとえばあなたがカーストの低い人間だとして、あなたに好かれるために他人が媚びてくるかというと、それはないはず。
つまり、あなたには好かれたくないわけである。
そして端的にいうならこの世の中、「この人には好かれたくない」という人だらけなのである。
セックスという問題があり、若い女ならとりあえず(極端な不細工を除いては)性的価値があるので、実は他人から好かれたくないという真実は曖昧にされているが、本質的な人間と人間の関係からして、やはりわれわれは他人から好かれたくないのである。
他人に好かれたいという強迫観念を持っているなら、それ自体がおかしいのである。
もちろんセックスとか金とか名声とかそういう実利のために、手段として好かれたいというのはあるから、好かれるための努力をしているのだが、チヤホヤされている人でも、人気がなくなったら一気に人がいなくなったりするわけだ。
なぜ「人気がなくなった人」に好かれたくないのか、それはメリットがないからだし、そもそも他人から好かれたくないからなのである。
発達障害者が疎まれる大きな理由もそれなのである。
自閉症スペクトラムの濃淡によってかなり違いはあるが、他人と親しくなれないのと同時に、やたらと馴れ馴れしいのも特徴だったりする。
ADHDは分け隔てのない親しみを他人に示して疎まれたりするわけだ。
定型発達者であれば、お誕生会に誰を呼ぶか(誰を呼ばないか)という差別感覚を身に着けているのだが、ADHDは無頓着だったりする。
これは決して差別をしない聖者というのではなく、社会的嗅覚の鈍さ、そして自らの体臭に気づいてないだけであろうし、頭のネジが外れているのである。
定型発達者のお誕生会も、要するに人選が差別的であるから、今まで呼ばれていた人が呼ばれなくなることもあるわけだ。
言い方を変えれば、差別などではなく、われわれはひとしく人間そのものが嫌いであり、容姿や金銭や権力などが目当てというだけなのである。
人間としては嫌悪しあっているのに「お目当て」のためにお誕生会をしているのだ。
ともかくチヤホヤされていた人がチヤホヤされなくなるという現象を目にすると、この世には差別などない、とも言える。
誰もが本当は嫌われている。
どんなに華やかな人間でも、お誕生会から外される可能性はある。
人間の人生は短い一回性であり、立場や肉体は固定されているし、そうそう頻繁には没落しないから、その短いスパンだと差別があるように見えるだけである。
誰もが本当は嫌われている、そもそも他人に好かれたくない、それが真実である。
「人気がなくなった人」と友だちになりたいか、と想像してみれば簡単な話である。
チヤホヤされなくなった人を見るだけで、そういう人間の本質はよくわかる。
たとえばあなたがカーストの低い人間だとして、あなたに好かれるために他人が媚びてくるかというと、それはないはず。
つまり、あなたには好かれたくないわけである。
そして端的にいうならこの世の中、「この人には好かれたくない」という人だらけなのである。
セックスという問題があり、若い女ならとりあえず(極端な不細工を除いては)性的価値があるので、実は他人から好かれたくないという真実は曖昧にされているが、本質的な人間と人間の関係からして、やはりわれわれは他人から好かれたくないのである。
他人に好かれたいという強迫観念を持っているなら、それ自体がおかしいのである。
もちろんセックスとか金とか名声とかそういう実利のために、手段として好かれたいというのはあるから、好かれるための努力をしているのだが、チヤホヤされている人でも、人気がなくなったら一気に人がいなくなったりするわけだ。
なぜ「人気がなくなった人」に好かれたくないのか、それはメリットがないからだし、そもそも他人から好かれたくないからなのである。
発達障害者が疎まれる大きな理由もそれなのである。
自閉症スペクトラムの濃淡によってかなり違いはあるが、他人と親しくなれないのと同時に、やたらと馴れ馴れしいのも特徴だったりする。
ADHDは分け隔てのない親しみを他人に示して疎まれたりするわけだ。
定型発達者であれば、お誕生会に誰を呼ぶか(誰を呼ばないか)という差別感覚を身に着けているのだが、ADHDは無頓着だったりする。
これは決して差別をしない聖者というのではなく、社会的嗅覚の鈍さ、そして自らの体臭に気づいてないだけであろうし、頭のネジが外れているのである。
定型発達者のお誕生会も、要するに人選が差別的であるから、今まで呼ばれていた人が呼ばれなくなることもあるわけだ。
言い方を変えれば、差別などではなく、われわれはひとしく人間そのものが嫌いであり、容姿や金銭や権力などが目当てというだけなのである。
人間としては嫌悪しあっているのに「お目当て」のためにお誕生会をしているのだ。
ともかくチヤホヤされていた人がチヤホヤされなくなるという現象を目にすると、この世には差別などない、とも言える。
誰もが本当は嫌われている。
どんなに華やかな人間でも、お誕生会から外される可能性はある。
人間の人生は短い一回性であり、立場や肉体は固定されているし、そうそう頻繁には没落しないから、その短いスパンだと差別があるように見えるだけである。
誰もが本当は嫌われている、そもそも他人に好かれたくない、それが真実である。
「人気がなくなった人」と友だちになりたいか、と想像してみれば簡単な話である。
チヤホヤされなくなった人を見るだけで、そういう人間の本質はよくわかる。
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