物質世界と精神世界を別々に考えるのは、あながち間違いではない。
物理現象と、それに充てがわれる感覚の繋がりに究極の根拠がないからである。

生物がいなければ暑いとか寒いというのはないはずである。
温度はあるとしても、それは暑い寒いの話ではない。

40度の湯船なら心地よくて、熱湯だと大変なことになるが、そういう熱さの感覚も、要はシグナルである。
警報装置の音に究極の根拠はあるまい。
つまり、快-不快というのは、安全マークもしくは危険信号であり、その対象そのものではない。
火災報知器の音が火災そのものではないのと同じである。

社会が発達してくると、快-不快の素朴な判断では、人生の転落という問題が起こってくる。
たとえばアルコールを事例にすると、これについては「飲みすぎると危険」だと言い聞かせるしかないわけである。
二日酔いという警報装置は身体に備わっているが、原則的には快楽だから、心身の健康を損ねる問題について、アルコール依存症で人生を台無しにした人の事例を列挙するなどして、「社会的な警鐘」を鳴らすわけである。

ともかく、われわれが精神と呼んでいるものはシグナルであり、それがすべてなのである。
快楽だけに走らないように理性で補正しているので、そこが上積みと言えるが、基本的には暑い寒いという警報装置が人間そのものである。
そもそもわれわれ人間は多細胞生物であるから、37兆だかの細胞については認識してないし、中央の管理人室でピコピコ音を聴いているだけなのである。







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