2017.09.29
勉強嫌い。可能性の断念。
このところ勉強嫌いというのが減っているように思える。
最近の若者は断念することに慣れているし、おそらくそれと関係している。
本当に勉強するようになったかというと疑わしいし、実際の学力は低下している懸念もあるが、感情的な反発はかなりなくなっている。
何十年も前の人間が「勉強が嫌だ」と暴れていたのは、断念する習慣がなかったからである。
とりあえず暴れるのが流儀だったわけだ。
勉強そのものが嫌というだけでなく、勉強のために何かを断念するのが嫌という側面が大きかった。
たとえばサッカーがやりたいというような具体性がなく、せいぜいダラダラと怠けている人間でさえも、そのダラダラの断念が嫌なのである。
むしろ、サッカーの練習をきちんとできる人間であれば、勉強もきちんとやっているのが普通であろう。
これについては体育会系のクルクルパーもずいぶんいるので一概には言えないが、ともかく、「断念」そのものへの反発というのがかなりあったのである。
人生は一度しかないし、一度にひとつのことしか出来ないから、いつでもわれわれは断念しているはずなのだ。
音楽を聞きながら勉強するくらいは可能でも、二冊の本を同時に読むのは不可能である。
つまり、どっちみち時間は排他的であり、「ひとつ」に絞られているのだが、変な全能感というか、ダラダラ感ですべての可能性を保持しているかのような、奇妙な錯覚もあるわけだ。
「ひとつ」を選ぶと、それ以外のすべての可能性を捨ててしまうので、何も選ばずにダラダラしていればいいということらしい。
まったく理屈に合わないのだが、おそらく「本当は自分は何でもできる」という空想的ファンタジーがあるのだと思われる。
40歳の既婚女性であれば夫は確定しているが、独身のババアだと王子様が現れるかもしれないということなのだろう。
ともかく、断念そのものへの激しい抵抗はずいぶん減ってきた。
これは多動性が障害とされるようになったこととも関係はあるだろう。
なにもしないことで「あらゆる可能性を捨ててない」と考える自己愛性人格障害は普遍的病であろうが、もはや健康な人はごく普通にひとつのことをやっているのである。
昔は発達障害でない人でもずいぶん暴れていたのだが、21世紀になっても暴れているのは発達障害とか人格障害だけであろう。
最近の若者は断念することに慣れているし、おそらくそれと関係している。
本当に勉強するようになったかというと疑わしいし、実際の学力は低下している懸念もあるが、感情的な反発はかなりなくなっている。
何十年も前の人間が「勉強が嫌だ」と暴れていたのは、断念する習慣がなかったからである。
とりあえず暴れるのが流儀だったわけだ。
勉強そのものが嫌というだけでなく、勉強のために何かを断念するのが嫌という側面が大きかった。
たとえばサッカーがやりたいというような具体性がなく、せいぜいダラダラと怠けている人間でさえも、そのダラダラの断念が嫌なのである。
むしろ、サッカーの練習をきちんとできる人間であれば、勉強もきちんとやっているのが普通であろう。
これについては体育会系のクルクルパーもずいぶんいるので一概には言えないが、ともかく、「断念」そのものへの反発というのがかなりあったのである。
人生は一度しかないし、一度にひとつのことしか出来ないから、いつでもわれわれは断念しているはずなのだ。
音楽を聞きながら勉強するくらいは可能でも、二冊の本を同時に読むのは不可能である。
つまり、どっちみち時間は排他的であり、「ひとつ」に絞られているのだが、変な全能感というか、ダラダラ感ですべての可能性を保持しているかのような、奇妙な錯覚もあるわけだ。
「ひとつ」を選ぶと、それ以外のすべての可能性を捨ててしまうので、何も選ばずにダラダラしていればいいということらしい。
まったく理屈に合わないのだが、おそらく「本当は自分は何でもできる」という空想的ファンタジーがあるのだと思われる。
40歳の既婚女性であれば夫は確定しているが、独身のババアだと王子様が現れるかもしれないということなのだろう。
ともかく、断念そのものへの激しい抵抗はずいぶん減ってきた。
これは多動性が障害とされるようになったこととも関係はあるだろう。
なにもしないことで「あらゆる可能性を捨ててない」と考える自己愛性人格障害は普遍的病であろうが、もはや健康な人はごく普通にひとつのことをやっているのである。
昔は発達障害でない人でもずいぶん暴れていたのだが、21世紀になっても暴れているのは発達障害とか人格障害だけであろう。
スポンサードリンク