例えば税金の勉強をするとする。
税理士合格とか、そのレベルではないとする。
つまり、資格取得などのメリットはないとする。

仕事で必要であるとか、会社経営などをしていて、税金の知識を活かす機会がある事例も除く。
生活のために必要なら必要に決まってるので、そういう差し迫った必要性がない場合を想定した話である。

おそらく誰であろうとも、一般常識として税金の簡単なことだけは知っておいて無駄にならないであろう。
だから、一般常識は必要性の枠に入るものとしておく。

問題となるのは、「一般常識」よりは難しく、しかし、税理士合格できるレベルではない、という程度の税金の勉強して何になるのか、という話である。

端的に言えば、必要がないであろう。
そもそも専門性に没頭している人であれば、そういう中途半端な知識を身につけることに時間を割くべきではない。
物理学者が、物理学をやる時間を削って税金の細かいことを勉強したり、あるいは司法試験に挑戦しても愚かでしかない。

ではそういう物理学者のような立場にいない人にとって、持て余した閑暇を使った手遊びとして、税金の小難しい勉強をしても無意味なのか、という話である。
ひとまずは無意味、という結論になる。
たまたまどこかで役に立つかもしれないが、メリットには直結しないからである。

こういう「一般常識」以上で「専門家」未満の実学を、実学的な教養と呼んでみることにする。
文学部的な教養は自己表現の世界であるから、趣味として好まれることもある。
これが税金の勉強となると、まったく自己表現ではない。
基本的には意味もわからず暗記することになるし、自己は疎外されている。

無味乾燥な細則であっても、その官僚的な文面の背景に浮かんでくる制度趣旨を察することはできるし、自分なりの解釈を加える愉しさもあり得る。
社会制度が人間を存在させているし、制度を踏まえてわれわれは存在しているのである。
もしくは特別に偉い人でなくとも、われわれは誰しもルールを策定する立場になりうる。
たとえば売春宿を経営するとしても、その店のルール設定は、人間の下半身の行動パターンを色々と勘案して考えなければならない。
いつでも制度趣旨については考えており、なぜこういうルールなのかと語ったりしているから、どのような実学であれ、なぜそういう仕組みなのか、という思考の遊びはできそうであるが、やはり文学と比べると自由度が低いということになるのであろう。
学んだことで資格が得られたり、実戦で使う機会があるのならいいが、そうでないとすると、自己疎外ということになってしまう。







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