2017.10.25
親から生まれたという説得力
目玉と鼻と唇の並びを顔として認識し、その顔の世界を生きている。この並びである必然性はないし、目玉が何十個あってもいいだろうが、われわれの感覚ではグロであり嘔吐すべきものだ。たとえば磁力というよく知られたものでも人間の五感では検出できない。しかし渡り鳥は磁力を感知できる。われわれは森羅万象を知り尽くしているわけではないのだ。顔は磁力よりも複雑なテーマであり、本来なら無機質な模様でしかないものに、何かしら特別な枠組みを与えて浮かび上がらせている。顔はあまりにも自明的であり、その自明性の桎梏から遁れることはできない。われわれは誰に設計されたかわからない存在者として生きており、本来ならこの疑問符の重さで圧死するべきなのだが、「親から生まれた」という物語で片付けることにしている。われわれの股間に血肉化している凶々しいケダモノがウィルスを撒いただけであろうし、肉槍も肉壷も顔を持たない。それでも頭部だけは顔を持っており、そしてこれは唯一無二の紋章であり、この美醜が身体の稜線にまで連なるから、誰でも同じチンコが付いている状態とは次元が違う捉え方をしている。われわれは日頃から他人の顔の品評をするのが趣味、いや、お遊びの手相見とは異なり、顔こそが人間世界そのものである。「親から生まれた」という説明原理が成り立つのも、親子の顔立ちが似るからであろうし、「親から肉体をもらった」という実感も、それがゆえである。われわれが他人の家族を見やる時も顔の相似性に着目している。顔が人間そのものであり、その顔が親からの継承なのだから、動かぬ証拠のようになっているのだ。この大地に同じようなチンコやマンコが叢生し、血腥い繁殖をしているだけではなく、あくまで顔という重大な個性を生きている。犬や猫にも顔はあるのだし、人類が初めて顔という概念を得たわけではないが、親に食物を与えてもらう必要性、あるいは親の義務の問題があるとして、血縁を確信させるのは顔なのである。生物の進化を考えれば、血縁の証明のために顔という概念が創造されたわけではあるまいが、人類はそのようにして活用している。他人の空似というものがあり、血の繋がりがないのにやたらと似ていることもあるが、顔が似ていれば自動的に血縁者として判定するわけではない。「親から生まれた」という物語の論拠として顔の近似性は説得力があるだけである。親は性行為をしただけであろうし、そもそもわれわれは多細胞生物なのだが、60兆の細胞がひとりの人間を構成する仕組みも人知を超えており、それを解き明かす端緒さえ思い当たらないから、「親から生まれた」が限界なのであろうし、われわれはその次元に存在してるのだから、天地開闢から地球上に生命が蠢いて、この穢土で人間が瘴気を放つまでの経緯を紐解く必要はあるまいし、人間的な説明として「親から生まれた」は正しいという言い方も出来る。
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