2017.11.01
正常な人=自然淘汰原理の崇拝者
猟奇的な事件というものがある。
いじめはそれに当て嵌まらない。
加害者はだいたい社会的適応力が高いからである。
雑に言えばダーウィン的な自然淘汰である。
ダーウィンは突然変異からの進化という論を唱えているのだから、どんぐりの背比べの優劣を競い合う人間社会を論じたかったわけではないが、ここではその定義の厳密さに拘る必要はあるまい。
9人が殺されたとなると、異常心理として見做して、その加害者を糾弾するわけだが、9人の被害者の共通点として、「自殺したい」とネットで言っていたという続報を聴くと、「罪もない人を~」という普段の憤慨がトーンダウンしている可笑しさもある。
いつもの正義くんらしい激憤ではない。
ただの集団自殺のようなものか、臓器売買など闇社会のものか、そういう背景に好奇心を抱いているだけであり、殺害行為そのものへの怒りは薄い。
「津久井やまゆり園」の障がい者19名が殺害された事件とも通底する。
たいていは殺人事件が起きると、「もし俺の家族が殺されたら相手を必ず殺しに行く」と空想の仇討ちを誓う正義くんで溢れるが、なぜか「津久井やまゆり園」に対して正義くんは平然としており、こういう怒りの欠如こそが薄ら寒い。
つまり、正常人だと気取っている人間は自然淘汰原理の崇拝者なのだ。
もちろん、「敗者をわざわざ殺すのはよくない」という感想は持つだろうが、敗者は遺伝子を残さずに消えて然るべきと考えており、だからいじめてハブるくらいは平気であるし、自然淘汰原理自体は信奉しているのである。
命を絶ってトドメを刺すとなると異常者なのであろうし、いじめ抜いて排除しようというのが正常者ということにもなる。
だからいじめは軽犯罪ではなく凶悪犯罪だと主張するために、抗議の自殺をする被害者が出てきてしまう。
正常者と異常者の線引きは何ぞやというと、正常者はただの勝ち組思考なのだ。
だから、いじめという軽犯罪は日常的に行っているし、「津久井やまゆり園」の事件を聴いても、優生学的な観点から認めているわけである。
敗者の命を絶つことには賛成しないだろうが、そういう寸止めは優しさであるどころか、「殺人犯にまでなるつもりはない」といういじめ加害者の小利口な発想でもある。
つまり、殺人が最大の犯罪であるのは確かなのだが、「殺すまでもない」というカースト制度はまったく別の意味で凶悪である。
いじめはそれに当て嵌まらない。
加害者はだいたい社会的適応力が高いからである。
雑に言えばダーウィン的な自然淘汰である。
ダーウィンは突然変異からの進化という論を唱えているのだから、どんぐりの背比べの優劣を競い合う人間社会を論じたかったわけではないが、ここではその定義の厳密さに拘る必要はあるまい。
9人が殺されたとなると、異常心理として見做して、その加害者を糾弾するわけだが、9人の被害者の共通点として、「自殺したい」とネットで言っていたという続報を聴くと、「罪もない人を~」という普段の憤慨がトーンダウンしている可笑しさもある。
いつもの正義くんらしい激憤ではない。
ただの集団自殺のようなものか、臓器売買など闇社会のものか、そういう背景に好奇心を抱いているだけであり、殺害行為そのものへの怒りは薄い。
「津久井やまゆり園」の障がい者19名が殺害された事件とも通底する。
たいていは殺人事件が起きると、「もし俺の家族が殺されたら相手を必ず殺しに行く」と空想の仇討ちを誓う正義くんで溢れるが、なぜか「津久井やまゆり園」に対して正義くんは平然としており、こういう怒りの欠如こそが薄ら寒い。
つまり、正常人だと気取っている人間は自然淘汰原理の崇拝者なのだ。
もちろん、「敗者をわざわざ殺すのはよくない」という感想は持つだろうが、敗者は遺伝子を残さずに消えて然るべきと考えており、だからいじめてハブるくらいは平気であるし、自然淘汰原理自体は信奉しているのである。
命を絶ってトドメを刺すとなると異常者なのであろうし、いじめ抜いて排除しようというのが正常者ということにもなる。
だからいじめは軽犯罪ではなく凶悪犯罪だと主張するために、抗議の自殺をする被害者が出てきてしまう。
正常者と異常者の線引きは何ぞやというと、正常者はただの勝ち組思考なのだ。
だから、いじめという軽犯罪は日常的に行っているし、「津久井やまゆり園」の事件を聴いても、優生学的な観点から認めているわけである。
敗者の命を絶つことには賛成しないだろうが、そういう寸止めは優しさであるどころか、「殺人犯にまでなるつもりはない」といういじめ加害者の小利口な発想でもある。
つまり、殺人が最大の犯罪であるのは確かなのだが、「殺すまでもない」というカースト制度はまったく別の意味で凶悪である。
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