キチガイとはなんぞやというと、命令に従うという観念を喪失している人間のことであろう。たいていの人は人倫に反することを何かしらやっているが、それは命令されてのことであるし、情状酌量の余地があるとされる。ヤクザの親分に命令されたというのなら免責されないが、サラリーマンが会社(法人)に命令されたというのなら、キチガイと同等のことをやっても免責されてしまう。同じ悪事を働くとしても、組織の人間として命令された場合と、自発的にやるキチガイとは話が違うのだ。こう考えると、法人というのは、何らかの踏み絵を踏んだ正常人の集まりであろう。われわれは社会的な生き物であるから、命令に従うのであり、そのこと自体がとても重視されている。軍人として認識票をつけていれば他人を殺めても差支えない。命令に従ったということなら、それだけで正常の証となるのである。

悪事をやるとしても、命令されたなら「不本意」なのである。本当に不本意なのかどうかは怪しいし、愉しんでるのが実際のところであろう。自己批判するとしても、所詮は自己満足だし、悪事で下賜された勲章を襟飾りとしながらも、辛うじて「自分」という余白を残しておきたい欲である。ともかく、その「不本意」な悪事を自発的にやったらキチガイと括られる。この差が何なのかというと、やはり社会的動物であることが人間の要件なのであろうし、命令に従うからには、人間として最低限の形をしているということなのだろう。命令されてないのに悪事、もくしは善意の押し売りをやるのは、どこからともなく飛んでくる暗器のようなものだから、人間として最低の条件すら備えていないキチガイと呼ぶしかないのである。生きながらの無縁仏として徘徊しているわけだ。

営利企業というものについて言えば、やはり頼まれているから社会的健全性を持つ。「命令される」と「頼まれる」を峻別できるかは不明だが、だいたい類似したものと考えていいだろうし、雑駁と区別するなら政治と経済になるであろう。頼まれてないのに親切の押し売りをするとしたら、素朴には自己中心的であるし、重ければ自閉症と言える。善意でさえ、それが押し売りであれば、キチガイの徴なのである。営利企業がキチガイでないとすれば、たとえば欠陥商品を作ることさえも、株主のための利益追求とか、何かしら頼まれている側面があるからなのだろう。

法人に帰属しているサラリーマンがキチガイと同レベルの悪事をやるのは人類の業病である。命令されていることが免罪符なのだろうし、どれだけ文明が消長し、あるいは進歩しようとも、人類の歴史を通して貫徹しているのだから致し方あるまい。キチガイは悪事だけでなく善意の押し売りも凄まじいから、其の意味ではサラリーマンの方が立派だと言えるが、要はそれだけである。法人が悪意を持つとしても、それは社会的なものだから致し方あるまい。法人を精神医学の対象にしても言葉の遊びにしかならないし、刑務所にも入れられないから難儀だが、一時的な流行り病ではないし、この組織性こそが人間の本質である。







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