2017.11.18

人生は推理

人生は推理である。
今回わたしが考えようとしているのは「察し」とは別の話だ。

察しというのは生まれつき備わっている社会性で、言われずとも常識でわかるということである。

たとえば人払いのために用事を言いつけるような状況。察しがよければ阿吽の呼吸でわかるであろうし、察しが悪い人は本気でその用事をやりに行くであろう。あるいは「その用事ならすでに片付けました」とか言って、その場から動かないかもしれない。こういう鈍感な人間は、察しのいい人間からつつかれるか、もしくは「二人だけで話したいので君はもういいよ」とはっきり言われるかもしれない。

さて、ここからが本題なのだが、今回はそういう察しの話ではない。察しのいい人は社会性があるだけであり、超能力者ではないからだ。遠回しに言われたことなら察することができても、本当に隠されていることは透視できない。

推理小説というのがこの世にあるのも、おそらく真相の判明にはタイムラグがあるからである。あとからいろいろと断片を繋ぎ合わせてようやく行間が見えてくる。ちょっとした新事実が何年も前の出来事と繋がり、真相に気づくこともある。

あるいは何らかの問題が発生するとわれわれは積極的に調査を行うわけである。これも一日や二日で判明するとは限らないし、何ヶ月も調べてようやく背景が見えてくることもある。新事実が途中からふいに出てきて、今までの出来事の裏側がわかることもある。

推理小説ではカタルシスを与えるため殺人という最高の犯罪の犯人探しをするのが定番だが、われわれの人生では殺人に限らず、日々発生する俗的なトラブルのたびに犯人探しは行われ、真相がわかったり、灰色決着で終わらせたり、モラルの問題として誰かが人身御供になることもある。

この世の中の原則として、ゲームが終了してお互いの手札を見せ合うことはない。時たま老人が「もう時効だろう」と前置きして半世紀前の話を率直に公開することもあるが、そうやって手札を見せるのが例外であるのも確かだ。たいてい手札は流してしまってるから、真相は永遠に不明になったりする。

人間が歴史的存在であるのも、このような推理構造が背景にある。理屈で解けるパズルではないので、天才が瞬間的に解くわけにはいかない。証拠としての事実が集まる、もしくはふとした偶然で新事実がわかるまで、時間の経過が必要である。たとえば自分の人生についても、なんらかの新事実が判明して、過去に回想を巡らせながら「あの時のあれはああいうことだったのか」と裏の意味に気づくのもよくある。もちろん何も知らずに嘘を信じて死んでいくことも多々ある。

われわれは事実そのものを生きているのだが、その事実を丸裸にして生きている人はいない。良くも悪くもプライバシーの権利はある。だから、われわれは他者の事実から隔離されている。事実を知るのは本人や関係者のみであり、それをわれわれ他人が知るかどうかはわからない。たとえば不仲が噂される夫婦が本当に離婚したら、ああやっぱりと事実として確定するが、そうでなければよくわからないのである。事実関係を調査しつつ、真相がわかったりわからなかったりするのが人間社会なのである。

人間は事実存在であるが、それを世間に知られたくない恥の感覚がある。この事実と恥の匙加減は、あらかじめ脳内に組み込まれているのであろうから、われわれはゲームの駒として、その感覚に従うしかないのだ。このところ個人のプライバシーへの意識は強まっているが、これはイエから核家族に変わったからであろうし、人間の本質が変わったわけではない。情報が開示されるかどうかはそれぞれの時代によるし、この社会力学も、代わり映えしない人間的なせめぎ合いなのである。







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