星野陽平「芸能人はなぜ干されるのか?」
1933年3月、契約俳優については50%、フリーランスについては20%という大幅な賃下げが強行された。これに反発した俳優6人がSAGを設立した。かつてAEAが映画俳優を組織化しようとして失敗し、ブラックリストが作られたことがあったため、SAGの会合は秘密厳守で、メンバーは乗ってきた自動車を集会場から遠く離れた場所に置かなければならなかった。
(中略)
ハリウッドには映画俳優だけでなく、映画に関わる職種ごとに労働組合があり、それぞれの職域でSAGと同様の力を持っている。ハリウッドでは、労働組合が最大の実力者なのである。

労働組合というのは、人間の交換可能性に対抗する組織とも言えるし、必ずしも絶賛されるべきものではなかろうが、とはいえ、「代わりはいる」という論法で賃金や待遇を下げていく経営手法に対抗する力として、一定の存在意義はあるだろうと思われる。

この本では日本の芸能界を批判してアメリカのシステムを賛美しているが、日本には芸能と差別という難しい事情がある。
日本の芸能人が労働組合を結成しないのは怠慢という一言では片づけられない。
というより、この本では日本の声優の労働組合について記述しているから、いろいろとわかった上でぼかしたのであろう。
差別問題については筆を省くのが当たり前であるし、この本だけがおかしいわけでもないのだが、アメリカの差別問題と日本の差別問題では話が違うし、そのあたりの説明を省いてアメリカを褒めるのは比較文化論としては物足りない。
とはいえ、終わりの方で、差別問題については軽く触れてある。
あくまで芸能への差別ということでまとめてあるから、あまり踏み込んだことは書かれていないが、それも妥当なのであろう。
この本を書いた星野陽平も、いろいろと悩んだと思われる。

そもそも今回のこのわたしのエントリーもかなり曖昧である。
なぜ差別問題が西日本に極端に偏っているのか不思議であるが、たぶん天皇制の問題というか、天皇が東日本を避けていたからであろう。
おそらく東日本に初めて足を踏み入れたのは明治天皇である。
やはり東日本には富士山があるので、天皇がそれを避けていたというのがわたしの勝手な考えである。
「富士の高嶺」という言葉は万葉集にも出て来るし、知られていたのは間違いないが、やはり天皇が絡むところでは富士山が出て来る頻度が少ないし、山岳信仰の対象として富士山を黙殺していたように思える。
天皇制という差別思想は富士山の神々しさの向こうまでは行けなかったのである。

今日では移動の自由があり、出身地による差別はかなり解消されている、あるいはさらに時間が経てば完全に無くなるだろうから、この手の問題については記述しないのも、ひとつの正しさである。

本書第7章でも指摘しているように芸能界と暴力団の結びつきは、本来、興行の分野に限られ、テレビを主な活動の場とする芸能事務所は、暴力団と関係する必要はない。実際、テレビの黎明期に芸能界を支配した渡辺プロダクションは、暴力団との関係はほとんどなかった。芸能事務所で暴力団との関係を深めたのは、1980年代から台頭したバーニングプロダクションの社長、周防郁雄が最初なのだ。

昔の芸能界では差別問題が背景にあったが、それに乗っかって芸能界を蚕食するただのヤクザが増えてきたという側面もあるようだ。
このところわれわれがそれを潰しに行っているのも、大立者として振る舞っている芸能ヤクザはただの不逞の輩にすぎないのだし、もはや差別問題に触れる懸念がなくなっているからであろう。







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