2017.12.18
カミングアウトする障害者には恋人がいる
http://www.asahi.com/articles/ASKDK0CSQKDJUBQU01M.html
カミングアウトする障害者の大半に恋人がいるのは、つまり、民間の恋愛市場で淘汰されてないという血統書の提示なのだろう。国家権力の優生思想による血統書はニセモノだが、民間の市場原理で恋人を獲得したなら、これは生物として正統性を得たということなのである。
強制断種のエピソードでも、ただのデータではなく実像として描かれる人はたいてい恋人がいる。「恋人と結婚できなかった」という怨みを語るわけである。恋人無しなら断種していいわけではあるまいが、ストーリーの説得力の問題である。
民間における淘汰、つまり自由恋愛ということだが、これが人権の礎なのである。 出来損ないはどっちみち淘汰されるのだが、あくまで民間の市場原理に任せるべきであり、 国家が強制的にやるのはおかしい、ということだ。それだけである。優生思想はよくないという正論を、あまり美しい結論に結びつけるべきではないであろう。 優生思想を禁じるという思想が度を過ぎると、 民間による自然淘汰も禁じるという話になり、たとえば、冨田真由さんは岩崎友宏の子種を胚胎しなければならないという極論だって導き出せる。だから恋愛する権利という言葉は使わないほうがいいし、恋愛主義とか恋愛原理とでも言った方がいいだろう。あくまで恋愛市場に任せるだけであり、生活保護と同じ文脈の権利ではない。
市場というのは一箇所に実在している場所のことではなく、概念である。とりあえず何らかの等価交換が成立していれば、この地球全体が市場である。この等価交換の等価とは究極の真理ではなく、たとえば売春婦が三万円だとして、これは買う側と売る側の懐事情からして、そのあたりに落ち着くというだけである。なんにせよ、そういう市場価値に基いてわれわれは存在しており、価値そのものの究極の根拠はないにしても、世の中の実情を反映しているのである。
さて、それでは恋人がいない障害者は無価値なのかというと、これについては、国家が合格発表や不合格発表をする筋合いの話ではあるまい。わざわざ無価値だと判定する必要がないのである。
旧優生保護法に基づいて障害者らに行われた強制的な不妊手術に関する、約半世紀前の公文書約80件分が神奈川県立公文書館で見つかった。「育児能力がない」といった偏見や病気を根拠に、手術の適否を審査した状況が具体的に記されている。こうした内容が、実際に用いられた行政資料で公になったのは初めてだ。
文書は同県優生保護審査会に提出された1962年度38件、70年度10件の手術申請書などと、63年度に実施された34件の手術費明細書など。立命館大生存学研究センターの利光恵子・客員研究員が見つけて分析し、10月に神戸市であった障害学会で発表した。
「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的にした同法は、遺伝性とされた病気、精神障害や知的障害のある人に、本人同意なしの不妊手術を認めていた。「公益上必要」などと医師が判断した場合、都道府県の優生保護審査会に申請した。
見つかった申請書や検診録には成育歴や症状が書かれ、何代にもわたる親族の病気や職業を調べた家系図も添えられていた。
知的障害のある10代女性の場合、申請理由に「月経の後始末も出来ない」「一日中座位、幼児の如(ごと)く遊んでいるが、時々興奮、粗暴行為あり」とあった。別の知的障害の女性は子どもがおり、「これ以上生まれては、益々(ますます)生活困窮する」。「仕事熱心で成績は優秀」な男性は、統合失調症を発症した半年後、手術が必要だと判断された。
カミングアウトする障害者の大半に恋人がいるのは、つまり、民間の恋愛市場で淘汰されてないという血統書の提示なのだろう。国家権力の優生思想による血統書はニセモノだが、民間の市場原理で恋人を獲得したなら、これは生物として正統性を得たということなのである。
強制断種のエピソードでも、ただのデータではなく実像として描かれる人はたいてい恋人がいる。「恋人と結婚できなかった」という怨みを語るわけである。恋人無しなら断種していいわけではあるまいが、ストーリーの説得力の問題である。
民間における淘汰、つまり自由恋愛ということだが、これが人権の礎なのである。 出来損ないはどっちみち淘汰されるのだが、あくまで民間の市場原理に任せるべきであり、 国家が強制的にやるのはおかしい、ということだ。それだけである。優生思想はよくないという正論を、あまり美しい結論に結びつけるべきではないであろう。 優生思想を禁じるという思想が度を過ぎると、 民間による自然淘汰も禁じるという話になり、たとえば、冨田真由さんは岩崎友宏の子種を胚胎しなければならないという極論だって導き出せる。だから恋愛する権利という言葉は使わないほうがいいし、恋愛主義とか恋愛原理とでも言った方がいいだろう。あくまで恋愛市場に任せるだけであり、生活保護と同じ文脈の権利ではない。
市場というのは一箇所に実在している場所のことではなく、概念である。とりあえず何らかの等価交換が成立していれば、この地球全体が市場である。この等価交換の等価とは究極の真理ではなく、たとえば売春婦が三万円だとして、これは買う側と売る側の懐事情からして、そのあたりに落ち着くというだけである。なんにせよ、そういう市場価値に基いてわれわれは存在しており、価値そのものの究極の根拠はないにしても、世の中の実情を反映しているのである。
さて、それでは恋人がいない障害者は無価値なのかというと、これについては、国家が合格発表や不合格発表をする筋合いの話ではあるまい。わざわざ無価値だと判定する必要がないのである。
スポンサードリンク