二十世紀的な神経症の典型事例として対人恐怖症というものがあった。日本人に顕著だという指摘も多々あったが、文化的差異については筆を省く。総じて言うなら人類はオカルトを信じて生きてきたのであり、神経症はまさにそのメンタリティなのだが、ノストラダムスはいなくなったし、UFOやネッシーや雪男が見えてしまう霊感もわれわれは失った。対人恐怖症というのは、おそらく呪詛という迷信が根底にあり、他人の心の中で悪口を言われることへのイミフな怖れ、もしくは心の中で相手を罵ることで復讐したことになる、というオカルト的な発想である。他人に平身低頭しつつ心の中で罵倒したとして有効打になるはずがないのだが、昔の人はそういう精神世界を信じていたのであろう。今日のわれわれはこういう迷信から脱却したであろうし、丑三つ時に藁人形を五寸釘で刺すこともない。われわれは外面世界に実存しているのであるから、他人の内面世界での寓され方を気に病んでも意味がない。神経症の代表的な事例である洗浄強迫も宗教めいてるし、ガスの元栓を何度も確認するのも「不吉」な予感を鎮める祈りの儀式なのである。祈ったり呪ったりする力をかつての人類は信じていたのだが、最近のわれわれは信じなくなっているし、これは科学の進歩の結果だから、不可逆的だと思われる。蛇足を厭わずにオカルト以外の問題を考えてみるが、対人恐怖症は劣等感と大いに関係がある。このところわれわれはプライドの固まりという在り方を疎んじている。神経症的な厳格さを放棄しており、自分という存在が理想に達してない出来損ないであるのをあっさり認めるから、劣等性なるものを人間最後の秘密のごとく、まがまがしい腫れ物として篋底に秘することはない。何が何でも規則を厳格に守る頑固さも疎まれるようになったし、不動の義務感ではなく、状況を見て柔軟に対応することが求められる。人生が不幸であれども、神経症的な理想を果たせなかったことは意に介してない。とりあえず現状において、われわれはコミュ力で何でもかんでも説明することに馴染んでおり、対人関係に難があるとしても、これを対人恐怖症にはせずに、性能不足のコミュ障だから仕方ないと考えている。他人が怖いのではなく、ただ単に自分が故障しているだけである。コミュ力礼賛は時代相の偏りと思えるが、どちらにせよわれわれが迷信家に逆戻りすることはない。







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