たとえばわたしの身体から1メートル離れた場所は「同じ場所」であろうかというと、なかなか難しい問題である。一ミリでも離れれば違う場所ということも可能であり、これは屁理屈ではないからである。1メートルの距離で他人と接して話すとなると同じ場所という気がするが、わたしがマンションの部屋の壁際にいて、たまたま隣室の住人も壁際にいたとして、その距離が数十センチだとしても、これを同じ場所とは言えない。カラオケBOXで隣の部屋を「同じ空間」とは言うまい。縁もゆかりもないからである。つまり、縁とゆかりがあるかどうかなのである。カラオケBOXで同じ部屋にいるのはまさしく縁とゆかりがあるのだろうし、逆に満員電車で乗り合わせた人とは縁もゆかりもない。これはテリトリーの問題でもあるし、五感の補足範囲の話でもある。五感の範囲の狭さについては贅言を要しないだろうから省くが、われわれは世界を「縁」という遠近法で見ていて、あくまで縁の近さ、あるいは縁遠さによって理解している。このようにして縁による遠近法がなければ、一ミリ先も一億光年も同じことである。三次元空間として距離が近いとか遠いとか、人間的な都合である。駅から近くて便利だとか、人間の物差しである。原発事故の現場から遠いから安全とか、これも人間的な遠近法である。物質にとって安全も危険もない。われわれは肉体という拷問器具に神経を蝕まれつつも、出来るだけ無病息災で快適な生活を願い、毒と薬を区別して、どうせ死ぬとはいえ、生き延びようとしている。さて、おそらく関心の共有についても述べなければ、「場」の話としては不十分であろうから、それについても語っておこう。人間は多細胞生物であり、われわれの自意識の単一性も疑わしいのだが、とはいえ、ひとまず固有の主体性があるのも確かである。カラオケBOXに五人いるなら、その五人が、それぞれ主体性を持ちつつも時間と空間を共有している。普段から仲好しかどうかは知らないし、お付き合いで嫌々ながら同席という人もいるだろうが、嫌々ながら授業を受けるのと同じで、それもひとつの共同体なのである。何らかの対象に関心のベクトルを向けて、それを確認し合うのである。意気投合していようが嫌々だろうが同じである。どんな家族でも家族は家族であり、家族の動向に無関心でいるわけにはいかない。あるいはゴフマンの儀礼的無関心についてはご存じの方が多いと思うが、近くにいても関心を共有する必然性がなければ無関心でいる、ということもある。嫌々ながら集まりに参加しなければならないルールもあれば、知らない人をじろじろ見てはいけないルールもある。空間的な距離として、親しい人とは近くにいることが多いが、まったく親しくない人と近くにいることもある。空間の距離と関係の距離の不一致ということだが、この場合には心理的な距離感を優先させて遠近法を調整するわけである。これは個人の好悪の判断だけではない。仲の悪い家族と同居するような強制的関係は社会的義務であり、社会的な遠近法として間近に差し向かっているのである。







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