2018.01.26
虚栄心と文化資本
わざわざ文化資本と銘打つからには、貧富とはまた別の親自身の出来の良し悪しが問題なのであろう。
出来損ないの多くは貧乏であるから、貧困と切り離して出来損ないを語るのも難しいが、ここではあえて別の角度から検討することにする。
人間は理想と現実の二重性を生きている。
社会的に成功していると二重性は少ないが、失敗している人ほど「本当は~になるはずだった」というのが多くなる。
ロースペックでも平々凡々として生きている人がいるのも確かだが、足りない部分を空想で埋めて人格障害に堕ちる人間も少なくない。
出来損ないだと人格障害の度合いは強くなる。
たとえば虚言癖のある人が医者になったとして、「わたしは医者です」と言っても詐称にはならない。
だが、その人が医者になれてなかったら「わたしは医者です」というのが詐称になる。
成功している人が聖人君子というわけではないが、嘘をつく必要が少ない。
嘘つきの素質があっても、本当に医者なら医者だと詐称することはできない。
やはり出来損ないだと出鱈目に出鱈目を重ねて欺瞞だらけになる。
親の二重性というのは子どもが引き受けなくてはならない。
外ではたいしたことがなくても、家の中では偉大な人物である。
たとえば有村悠さんの子どもに生まれたとしたら、自称東大卒の父親を勝たせるために、あのご高説を賜りながら負けてあげないといけない。
われわれは遠くから有村悠さんの言動を見ているので、まったく真に受けてないが、子どもということであれば、真に受けた上で、暴力的にマウントされるわけである。
つまるところ、親というのは距離感が非常に近いので、災害を遠くから眺めるような接し方はできない。
文化資本の多寡ではなく、つまり多い少ないではなく、むしろ文化資本の少ない人間は膨大な虚栄心や出鱈目の固まりなのである。
知識不足ではなく、バイバインのように膨らむ出鱈目の製造機なのだ。
ソクラテスが言う無知の知のように自覚がある馬鹿なら賢者だが、人格障害系の出来損ないにそれはない。
教える能力がないというよりは、むしろ出来もしないのに教えようとするのが出来損ないの特色であり、やはり文化資本が少ないのではなく、空想的な虚栄心に満ちた出鱈目を大量に生産するのだし、これが偉大な親としてマウントしてくるとなると、子どもが人格障害になるのは避けられない。
出来損ないの多くは貧乏であるから、貧困と切り離して出来損ないを語るのも難しいが、ここではあえて別の角度から検討することにする。
人間は理想と現実の二重性を生きている。
社会的に成功していると二重性は少ないが、失敗している人ほど「本当は~になるはずだった」というのが多くなる。
ロースペックでも平々凡々として生きている人がいるのも確かだが、足りない部分を空想で埋めて人格障害に堕ちる人間も少なくない。
出来損ないだと人格障害の度合いは強くなる。
たとえば虚言癖のある人が医者になったとして、「わたしは医者です」と言っても詐称にはならない。
だが、その人が医者になれてなかったら「わたしは医者です」というのが詐称になる。
成功している人が聖人君子というわけではないが、嘘をつく必要が少ない。
嘘つきの素質があっても、本当に医者なら医者だと詐称することはできない。
やはり出来損ないだと出鱈目に出鱈目を重ねて欺瞞だらけになる。
親の二重性というのは子どもが引き受けなくてはならない。
外ではたいしたことがなくても、家の中では偉大な人物である。
たとえば有村悠さんの子どもに生まれたとしたら、自称東大卒の父親を勝たせるために、あのご高説を賜りながら負けてあげないといけない。
われわれは遠くから有村悠さんの言動を見ているので、まったく真に受けてないが、子どもということであれば、真に受けた上で、暴力的にマウントされるわけである。
つまるところ、親というのは距離感が非常に近いので、災害を遠くから眺めるような接し方はできない。
文化資本の多寡ではなく、つまり多い少ないではなく、むしろ文化資本の少ない人間は膨大な虚栄心や出鱈目の固まりなのである。
知識不足ではなく、バイバインのように膨らむ出鱈目の製造機なのだ。
ソクラテスが言う無知の知のように自覚がある馬鹿なら賢者だが、人格障害系の出来損ないにそれはない。
教える能力がないというよりは、むしろ出来もしないのに教えようとするのが出来損ないの特色であり、やはり文化資本が少ないのではなく、空想的な虚栄心に満ちた出鱈目を大量に生産するのだし、これが偉大な親としてマウントしてくるとなると、子どもが人格障害になるのは避けられない。
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