2018.01.30

説明と説教

説明には二種類ある。根本的な説明と、訓戒めいた説教である。この世のたいていのことは根拠がないから根本的な説明がされることはなく、お説教しかない。たとえば体育会で先輩が偉い理由を根本的に説明されることはなかろうし、何かしら通俗的な、もしくは四書五経に親しんでなくても、その手の上下関係を礼賛する御高説をいただくのみである。「先輩への礼儀作法」を説教されることはあっても、そもそも先輩はなぜ偉いのかという根源的な説明はない。まずは世の中に馴染むのが正常人の特徴であるし、疑問を呈するのは障害者である。疑問を持たれては困るのである。正常人は現実をそのまま理解している。現実というのはあらかじめ決まっているわけではなく、たとえば一万円札のようなものである。なぜ一万円札に価値があるのか、という疑問は持っていない。つまり根源まで理解する必要はない。洗脳されて盲従しているのが正常人とも言えるが、実際は人間の裏側について察しがついているから、本当の頑迷な盲人ではないし、状況が変化すれば洗脳から脱する柔軟性も持ち合わせている。正常人は簡単に洗脳されるし簡単に脱することもできる。旗幟を鮮明にしたかと思えば、いともたやすく宗旨替えする。昨日まで学生運動をやっていて、今日からいきなりサラリーマンになるのが正常人である。骨の髄まで洗脳されているのではなく、プロパガンダを見切った上で仮装行列しているのである。冒頭に述べた体育会系の先輩後輩もさすがにPL学園みたいなのはもうない。体罰についても然りである。数十年前まで体罰を平気でやっていたのに、いきなり「もうそういう時代ではない」とやめることができるのが正常人である。先輩がどれだけ偉いか、教師がどれだけ偉いかという空々しい説教は立ち消えとなったわけだ。未だに体罰をやる教師の異常性については論を俟たないが、簡単に切り替えることが出来た正常人もなかなか謎である。数十年前の御高説は紙切れとなったのであろうし、年齢を重ねるごとに人間性が成長するという物語も消え去ったのだが、その適応力の素早さたるや、これはこれで恐懼の念に堪えない。当然ながら世代が入れ替わっているので、同一人物として存在しつつ、洗脳されて洗脳から脱する繰り返しという見方は正確ではないし、右顧左眄して転向を延々と繰り返したくても寿命が足りない。とはいえ、時代に合わせるというか、たとえばベテラン教師が体罰を控えるようになったくらいは普通にあるだろう。同一人物でも社会に合わせて頭の中を書き換えているのである。世の中が変わったから体罰をやめるという正常さを見ると、適応力こそが肝心であり、体罰そのものが異常とは言えまい。時代という無生物を擬人化して語るのも変であるが、われわれは時間的存在であり、コールドスリープでスキップできないのが大原則なので、その場その場で命を人質に取られ、差し迫った状況において雨露を凌ぐために、時代に命じられた囚徒となるのである。こうなるとまるで主体的な責任能力を無効にするために論を進めているかのようだが、なぜこの地球上で人間が繁殖しているのかさっぱりわからないので、どの次元で勘定を付けるか、つまり、一万円札のやり取りは人間と人間の間の価値概念でしかないが、そのたぐいの取り決めを真理として擬制するという話である。法律は遡及しないという大原則の問題もあり、凶悪犯罪者に時効はないと正義君が御高説を弁じ立てるとしても、そこらの有象無象の小市民が旧悪を「昔の話」と曖昧にしてお茶を濁すのは差し支えないらしい。







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